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世界説明SS
踏み切られた二つの幕開け
(2010/09/10)

 夢を見ていた。
 思い出すことなんて二度とない。
 そう思っていた夢を。
 俺が俺でない時の夢。俺が俺になることなど考えもしなかった頃の夢。
 世界は荒れ果てていた時代の、それでも小さな村にあった、小さな幸せの夢。

 それは間違いなく、熱に浮かされた、見るべきでない夢だった。

  ◆◇◆◇◆◇◆

「ヤイナラハさん?」
 声を掛けても返事は無い。ルティさんもヤイナラハさんも寝起きは悪くないはずなのに……
「起きて下さい。朝ごはんに行きますよ?」
 軽く揺すってみるけど変事は無い。と、いきなりルティさんが横に並ぶと強引に毛布を剥ぎ取りました。
「……」
 ルティさんの行動も驚きですが、それ以上に────
「ヤイナラハさん!?」
 水でも被ったようにシーツも下着然とした彼女の夜着も濡れ、それでも足りないと赤くほてった体からは汗が噴出しています。
「風邪……?」
「違う。これ」
 ルティさんが彼女の左腕を指し示すと、そこがうっ血したように紫色に染まっていた。
「これは……!」
「毒、恐らく昨日の」
 昨日────ユキヤさん達と別れた私達は街に入り込んだ怪物と戦いました。
「怪我をしていたなんて言ってなかったのに」
「最初の不意打ち。掠ってたのかも」
 確かに、ヤイナラハさんへの不意打ちを彼女は間一髪避けたように見えましたが、その可能性はあります。恐らく爪に毒を持っていたのでしょう。
 私は急いで禊の札を用意して解毒を試みますが─────
「祓えない……?」
「薬草を煎じて見る……。医者、連れてきて」
 私の術は一度通じなかった以上決定的になりえません。しかし、それほど強い毒で一晩苦しんでいただなんて……
「急いで」
 ポーチから薬草を取り出し並べ始めたルティさんの声は今までに無いほど強い意志を含んでいました。私はそれに背中を押され、慌てて外へと飛び出したのでした。

  ◆◇◆◇◆◇◆

「じゃあ、これを宜しくね」
「ええ。受領しました」
 帰りの便で運ぶのは管理組合とエンジェルウィングスの活動報告だ。100mの壁がある以上、これだけのことでも人が運ばなくてはならない。
「あと、ついでにこれもお願い。管理組合でいいはずだから」
「これは?」
 渡されたのはケースだ。
「オアシスの水だよ。一応検査はしてるけど大図書館の方でもっと精密な検査をすることにしたらしい」
「……えっと、飲んでも大丈夫なんですよね?」
「問題ないよ。むしろ微生物すら存在していない水だから」
 そういえばサンロードリバーにも魚は居ないとか言ってたっけ。
「純水ではないし、炭酸が入ってるわけでもない。飲料水として成立するレベルだよ」
「はぁ」
 純水だと確か胃に穴が開くんだっけ? そんな事を思い起こしながら「これ、ガラスとかじゃないですよね?」と問うと「プラスチックだから叩きつけなきゃ平気だよ」とのこと。
「じゃあ、確かに。行ってきますね」
「うん。次ぎ着たときは夜にでも食べに行こう」
 僕ははいと頷いて管理組合の仮設事務所を後にする。ここにエンジェルウィングスの窓口を併設されているのだ。
「ユキヤ君。準備オッケーですか?」
「ええ。荷物は受け取りました」
 今日のレイリーさんはエスキモーみたいな厚手のコートを上に一枚着ていた。何だかんだ言ってやっぱり昨日の寒さが随分と堪えていたらしい。
『出発かい?』
「うん。エルもよろしく」
『じゃあ飛ばそうかね。お嬢ちゃんも防寒しっかりしてるみたいだし』
「……お手柔らかに」
 エルは勝手にドライブの出力を上げる事ができるから、怖い。
 荷物をBOXに仕舞い込み、動かないようにバンドで固定しているうちにレイリーさんはサイドカーに乗り込む。
「じゃあ、行きましょうか」
「はーい」
 今日も天気は良く、吹き抜ける風は痛いほどに冷たい。メットを被った僕は寒さからシャットアウトするようにバイザーを降ろした。

 ばうっ!!

 犬の声。
 聞き覚えのあるそれに首を巡らせるとエルの前にトウコさんの犬が走りこみこちらを威嚇するように吼えた。
「え? どうしたんですか?」
 と言っても、犬語は分からない。ただこの犬が僕を出発させないようにしているのは何となく分かる。
「犬さん、邪魔ですよー。今度遊んであげますからー」
 レイリーさんの気楽な声に否定するようにもう一度吼え、お座りのポーズで僕を見上げる。
「トウコさんと一緒じゃないんですか?」
 返事は無い。ただじっとこちらを見上げている。
「もー、出発できないですよ!」
「……何かあったんですか?」
 ばうと一つ吼えると、流石にレイリーさんも不思議そうに首を傾げて僕を見上げた。
「少し、寄り道しても良いですか?」
「……仕方ないですねー。行きましょうか」
 レイリーさんもこの犬が何かを訴えている事は察したのだろう。基本的に悪い人じゃないのだから無視していくなんて考えにはならなかったらしい。
 犬はすくっと立ち上がると僕達を誘導するように走り始める。
「エル、街の中だからサポートお願い」
『分かったよ。お人よしだねぇ』
 随分な速度で走るが、まだ朝早く、そして人もまばらな衛星都市とあって人通りはそんなにない。やがてある宿の前に来ると何度か犬は吼えた。
「ここって、泊まってるところかな?」
 呟くと同時に窓が開き、トウコさんがこちらを見て手を振る。
「すみません、ユキヤさん。火急のお願いがあるんです!」
 朝の澄んだ空気にトウコさんの声が響く。それに焦りと困惑を感じて僕は嫌な予感を覚えつつ、バイクから降りた。

  ◆◇◆◇◆◇◆

「随分と酷いな」
 40がらみのドワーフっぽい医者が難しい顔で呟く。
「解毒の魔法は効かなかったと言ったな?」
「ええ」
 トウコは符を握り締めて無念そうに頷く。
「お嬢ちゃん、何を処方した?」
「ウェバンドとレクィヂア」
「解熱と強心か。妥当だな」
「解毒の種類が分からなかった」
「複合毒だよ。下手に一部だけ解毒すると酷い事になる」
 薬剤かばんからいくつもの薬品を取り出し、調合を始める。
「術の種類は?」
「え? えっと……《禊》と言って分かりますか?」
「穢れ払いか。ならそれを可能な限り連続で掛けてくれ。祝福の術があればそれもだ」
「はい!」
 不安を打ち払うように次から次に術を掛ける。
「ウェバンドとレクィヂアと言ったな。ならばローデンなんとかという風土病の薬は持ってないか?」
「……ある」
 ポーチから乾燥して黒くなった実を4つ取り出して渡す。
「詳しい」
「これでも医者だ」
 受け取った実をすり鉢に入れて別の薬草と一緒に磨り合わせつつ、ヤイナラハの容態を見る。
 右腕は目を背けたくなるほどドス紫に染まり、それは肩口にまで広がっている。
「左腕でなくて良かったな。心臓に毒が溜まったら死んでたかもしれん」
 トウコが何度も術を掛けるが変色部分が小さくなる様子は無い。医者は「もう良い。水を用意してくれ」とトウコに指示を出し、すりつぶした薬品を薬包紙に注いだ。
「お水です」
「じゃあ、お嬢さんを起こして」
 壊れ物を触るような手でヤイナラハの上体をゆっくりと起こさせると、医者は薬を水に溶かし、混ぜてから少しずつ口に流し込む。
「っく!」
「聞こえているか? 無理にでも飲め!」
 大き目の声で叫ぶ。ぜぇぜぇと荒い息を吐くヤイナラハはほんの僅かに目を開いて医師の姿をぼんやりと見た。
「……」
「大人しく飲め」
 何かを言おうとしたのか、しかしそれもすぐに諦めて彼女はゆっくりと注がれる水を喉に流し込んでいく。
「先生……」
「とりあえず応急処置だ。傷の手当に関しては準備もあるが、毒、それもここまで進行すると流石に準備が足らん」
 もっと早く気付けば手段はあったのだろう。ヤイナラハの意地っ張りな部分が災いとなっていた。
「方法は無いんですか!?」
「クロスロードまで運ぶしかあるまい。あっちなら高位の神官も、施設もある。
 とは言え、一秒でも早く処置をせんとどうなるか分かった物ではない」
「今の時間は!?」
『8時23分です』
 確か朝の輸送隊は8時には出発しているはずだ。これには間に合わない。
「エンジェルウィングスに……っ、ユキヤさんは!?」
「探しに行った」
 ルティの言葉に「え?」と言う顔をし、そこでようやく自分の式神がいない事に気付く。
「あの子が?」
 影から生み出す式とは言え、犬神は死んだ犬の魂を有している。自立行動が可能な事は自分が一番承知しているが、他人の依頼に勝手に応じるなんて始めてのことだ。

 ばうっ! ばうっ!!

 外からの聞きなれた声。
 慌てて窓を開けるとそこにはバイクに乗ったユキヤとそれを引き連れてきた己の式神の姿があった。

  ◆◇◆◇◆◇◆

 頭が回らない。
 呼吸をするのが精一杯で、自分がヤバイ状態だということだけは分かった。
 病気や毒にやられたら手持ちの薬で何とかするしかなかった。昨日も妙に腫れたから軟膏を塗っておいたはずだが。
 思った以上に酷い毒だったらしい。『死』が脳裏を過ぎり、いつかは訪れる物だと飲み込む。
 魔王が滅びるまで、戦いの中で死ななかった俺は運が良かったのだろう。
 そこれ降りる事ができた。でも俺は戦いを選んだ。選んだ以上、その幸運が尽きれば死ぬのは当たり前の事だ。
 わがままを言うなら、苦しいのは勘弁してもらいたい。
 どうせ死ぬのなら、さっさと死にたい。そう、思った。

  ◆◇◆◇◆◇◆

「ユキヤさん、お願いです。ヤイナラハさんをクロスロードまで届けてください!」
 ベッドには酷い汗を掻き、苦しげな呼気を漏らすヤイナラハさんの姿があった。昨日僕達を襲った化け物は思ったとおり三人の所に現れたらしい。そして無事撃退したはずだったけど、ヤイナラハさんは小さな傷を負っていた。
 問題はその傷で、あのバケモノは爪に毒を持っていたらしく。それを受けたヤイナラハさんは……多分我慢しちゃったんだろう。
「クロスロードに行けば何とか────」
 問いかけて、気付く。何とかなるはずだ。脳の損傷すら治すような人が居る。
「ターミナルでは空輸は危険だからな。車かバイクが好ましい」
 医者の言葉は理解している。空を単独で行く者は帰ってこない。クロスロード成立前、地球世界系の《ガイアス》がターミナルに戦闘機や調査機を持ち込んだそうだけど、そのどれもが100mの壁を越え、視界から消えた時点で消息不明になったらしい。
「でも、ユキヤ君のバイクは2人乗りですよね?」
 サイドカーがついているので3人まではいけるけど、レイリーさんの剣が1人分の重量がある。だからレイリーさんとヤイナラハさんを乗せて走るのはちょっと厳しい。
 ヤイナラハさんを運ぶのが目的なら二人で行けば良い。けれども────荒野には怪物が居る。
 昨日の空から襲い掛かろうとしたあの威圧感を思い出す。
 死が鎖のように心臓に掛かり、内臓を押しつぶしていく。二人で行けば、動けない彼女を、そして自身を守るのは自分だけだ。
 視線がヤイナラハさんへと動き、直前で止まる。
 見れないと思った。その苦しい顔を見て僕は決断を強いられるのが怖かった。
「ユキヤさん! 時間が無いんです!」
 トウコさんが僕の手を取る。痛いほどに握り締められた手には不安が、そして僕を見上げる目には自分には出来ないという苦痛が揺れ動く。
「私からも、お願い」
 誰の声かと思った。反対を見れば、あの魔女の格好をした子が僕を見上げていた。
「ヤイナラハを助けて」
 息を呑む。自分には手段があるということが心臓を縛り付ける。不安と恐怖が肺を締め上げる。
 ここからクロスロードまで約3時間。多分レイリーさんの剣がない分、飛ばせばもっと早くなる。
 頭の計算が不安に揺らぐ。もし怪物に出会ってしまったら? もし転倒してしまったら。もし、もし、もし、
 IFの嵐が濁流となり視界が傾いだ。眩暈がしても現実が逃がしてくれない。
 僕はただの学生だ。医者でも消防士でも警察でもない。誰かの命を預かるなんて、そして危険な場所に飛び込むなんて僕のすることじゃない。
「ユキヤ君」
 レイリーさんが目の前に立っていた。
 僕の不安なんて知ったことではないと言わんばかりのとても気楽な微笑みで。
 そのまま半身を後ろに引く。
 え? と思ったときには白くて細い指を固めたそれが目前にあった。

 火花が散る。

「なっ! 貴女一体何を!!」
 トウコさんの素っ頓狂な声。遅れて左目の辺りに鈍痛が響き、眩暈が吐き気を催すのを必死に飲み込む。
 そうしてはじめて殴られたと悟った。尻餅を突いて、僕は信じられない物を見るように彼女を見上げていた。
「おはようございます」
 にっこりと笑顔。花の様に可憐で数瞬前の凶行、その影も見せないような綺麗な笑顔で僕を見ている。
「目が覚めましたか?」
「レイリー……さん?」
「起きたらやることがあります。エンジェルウィングスの駆動機の中でユキヤ君のエルちゃんが一番早いのは明白です。
 わかりますよね?」
 ずきずきと痛む。きっと青あざになると暢気な考えがレイリーさんの言葉、その意味にシフトする。
「このままだと彼女、死にます」
 分かっている。
 反射的に喉元に登ってきた声は再び飲み込んだ。
 分かってない。僕は今、僕の事だけを考えていた。
 それの何が悪いと思う。
 でも、僕は
「……レイリーさん、痛いです」
「痛くしましたもの」
 悪びれもせずに差し出してくる手を取り立ち上がる。
「僕はヤイナラハさんに二度も命を救われていますから、やります」
「じゃあ、私は待ってますね。あ、所長にはサボりじゃないって伝えてくださいよ?」
 いつものほわほわした感じのまま、彼女は可愛らしく首を傾げる。
 お姉さんぶってるといつも思ってたけど、違う。彼女は年齢を抜きにして僕よりもよっぽど大人なのだと実感する。
「トウコさん。ヤイナラハさんに厚着をさせてください。先生、何か注意事項はありますか?」
「今更ちょっとやそっとの振動なんて言ってられない。とにかく一秒でも早く到着して施術院に飛び込め」
「『とらいあんぐる・かーぺんたーず』でも大丈夫ですか?」
 僕の問いに先生は少しだけ驚いた顔をし、「あそこの顔なじみか。くれぐれもミサイルだけには気をつけろ」と笑みを浮かべる。
「ユキヤさん」
 トウコさんが僕の左目の辺りに触れる。
「青あざだけは治しておきます。目が腫れて事故をしたら大変だから」
 言いながらどこか苦しげなのは、多分だけどその術でヤイナラハさんを治せないからかもしれない。
「ありがとうございます」
「じゃー私からも〜」
 再びレイリーさんが目の前に来て思わず腰が引ける。それよりも早くぐっと近付いてきて、閉じた目に柔らかい感触。
「え?」
「おまじないですよ〜。こうするとピンチの時に生き残れるって漫画に描いてました」
 相変わらずツッコミどころ満載の発言をする人だけど、僕はただただ苦笑して、「ありがとうございます」としか言う事ができなかった。

  ◆◇◆◇◆◇◆

『あら、随分とドラマチックなシチュエーションじゃない?』
 エルが楽しそうに茶化してくる。サイドカーにはヤイナラハさんが乗せられ、隙間に毛布を詰め込まれている。呼吸を阻害するためにメットはつけておらず、代わりに防寒具のフードを被っている。
 ガラじゃないよ。
 口に出さずに応じると
『誰もが主役になれるのよ。たった一度でも勇気を見せればね』
 勇気。その言葉がとても重い。今だって心臓が破裂しそうなほど高鳴ってるし、できるなら誰かと変わってほしい。でもエルを動かせるのは僕だけだし今からエンジェルウィングスの支店に行き、足を確保する時間は余りにも勿体無い。
 僕の逡巡だけでも時間を食ってしまったしね。
 深く、深呼吸をする。
「エル、飛ばすからサポートお願い」
『言われなくても。その代わり振り落とされないでね』
「病人が乗ってるんだからそれを考慮して下さい」
 予想を遥かに上回りそうな応答に思わず前言撤回で窘める。
『分かってるわよ』
 ホントかなぁ……
「じゃあ、行ってきます」
 僕は視線を上げる。居並ぶ面々は一名を除き不安を抱いていた。僕にではなく、ヤイナラハさんの症状にだ。僕は届けて当たり前だと改めて心に刻む。それまでヤイナラハさんが持ちこたえてくれないと……
「お気をつけて」
 トウコさんが祈るような面持ちで僕に継げる。魔女の女の子もじっとヤイナラハさんを見つめている。
「おいしい物見つけておきますから早く戻ってきてくださいね」
 自分のスタンスを崩さない人だ。僕は笑みを作って「はい」と応じる。
「行こう」
『OK』
 いつもは電気自動車のように静かなマジックドライブが鋭い唸りを挙げる、決して大きな音じゃないけれど、エルの思考はやる気そのもののようだ。
 躊躇う時間は不要だ。飛び出してしまえば僕は戻るなんて事をしない。彼女の命を抱えたまま右往左往する方がよっぽど怖いから。
 情けない理由かもしれないけど、結果オーライなら、それで救えるなら何だっていいじゃないかと自分に言い聞かせる。
 気付けば周囲には風があった。メーターは60Km。舗装されていない路面を走るには実はかなり厳しい速度だ。サイドカーがついている分転倒の畏れは少ないが、地面を上手に噛めないために下手に曲がろうとするとそのままドリフトしてしまい僕は投げ出される事になる。
「エル、飛ばせるところは飛ばして」
『OK。久々に本気出すわ』
 けれども真っ直ぐ走る分には気にする必要もない。この荒野はひたすら何も無い。避けるべき障害物すらも。あるのは探索地域の中にある未探索地域のみだ。そこを迂回するカーブだけ気をつければいい。
 メーターがぐんぐんと跳ね上がり肩に掛かる風が、背を流れていく力がぐっと重くなる。メーターが100を越えるとエルが加速を落とした。たまに踏む石が車体を揺らし、腕を苛むのを感じる。今はまだ余裕だ。でもずっと続くと相当のダメージになる気がする。
 休みなしで約3時間。途中で休憩を入れた方が早いのではないかという思考が流れるが十分やそこら休んだだけでどうとなるとは思えない。むしろカーブを強いられる場所でエルにハンドルを預けた方が良いだろう。
 割り切る。僕さえ乗っていればエルは一人でも走れる。僕に要求されているのはテクニックではなくただこの3時間足らずしがみついていることだけだ。
『情けなくなんて無いわよ』
 僕の思考を読んでエルが楽しそうな声を放つ。
『あんたはこうしてここで走ってる。それだけでも誇れるじゃない』
 ありがとうと、声にできない声で応じる。
 車体が揺れる。タイヤは容赦なく石を食んでは体全体を揺さぶってくる。ヤイナラハさんはバンドで体を固定しているけどその分衝撃も逃がせないはずだ。僅かに視線を向けると力なくうつむいたまま振動に踊っている。
『大丈夫、ちゃんと生きてるわよ』
 エルの言葉に安堵と、そして焦りが心に生まれる。彼女の状態は『まだ』生きてるようなものだ。
『気合を入れて。そろそろ迂回エリアよ』
 僕は頷き、正面を見据えた。停まれない。戻れない。誰かが死ぬのは怖いから。誰かを救えないのは怖いから。
 唯一の手段─────彼女も、僕の弱い心も救えるのはこの道を走りきることだけだと信じて、必死にエルにしがみつく。それだけをただ必死に続けていく。

  ◆◇◆◇◆◇◆

 防護壁を完全に設置し終えた衛星都市はちょっとしたお祭りムードであった。
 クロスロードと比べれば貧弱に過ぎるが高さ3mもある壁がぐるり町を取り囲めばその安堵感は大きい。
 誰からとなく酒を飲み、それが伝播してちょっとした騒ぎになっても仕方の無い話なのだろう。
 そんな中、その光景をうらやましく思いながらも流石に仕事を放り出せず頬杖付いた管理組合組員が居る。
「むくれ顔しないの」
「だって非常コールの番なんて退屈ですよ」
 同僚の諌めに口を尖らせて返答。この数週間、周囲に設置した探査機が反応を返した事など殆ど無いし、あっても大した問題では無かった。
「外は祭り騒ぎだって言うのに」
「そういう時の慢心が一番危険です」
 一際澄んだ声音に二人の組員がびくりとして背筋を正す。
「お気持ちは分かりますがお仕事はきちんとお願いしますね」
「「は、はいっ!」」
 声の主────メルキド・ラ・アースという名の女性はくすりと笑って空いている椅子に腰掛ける。
 管理組合の中には一応階級のようなものがある。どちらかと言うと会社の役割のようなもので『主任』や『課長』といった肩書きだ。
 彼女は東砦管理官という肩書きが主で、部長職よりももう一つ上の役職である。
 見た目は若い女性だが、その実力は昼間に誰もが見たとおり。たった一人で防壁を作り上げるほどの土使いである。
「来週には補強建材も届きますから、そうすればひと段落です。よろしくお願いしますね?」
「はいっ!」
 物腰穏やかなお嬢様に微笑まれては頑張らざるを得ない。そんな感じの朗らかさが広がりかけたとき、けたたましい音と赤い光が仮設事務所を満たした。
「なっ!?」
「状況報告を!」
 鋭い声に次々とスクロールする画面に目を走らせる。音に驚いて駆け込んできた他の組合員も状況を確認するために自分の席に着く。
「かっ! 怪物です。南方よりその数……計測不能っ!?」
「西方からも大群が接近しています。距離4000っ!」
「進軍速度から明朝には先鋒が衛星都市に到達しますっ!」
 アースは次々と送られてくる言葉に顔色を変えつつも「伝令を飛ばしなさい!」と声を発する。
「緊急警報を発令。事態を知らせ、戦闘能力を持った人には協力要請を」
 こういう時、強権を発行できないのが辛い。彼らは今すぐ尻尾を巻いて逃げ出す事も選択できるのだ。
 一人でも逃げ出せばそれに続く者は一気に増える。警報を発した瞬間にそれが起こると分かっていても管理組合の立場として秘匿する事はできない。
 次々と組合員が走りだし、報告は矢継ぎ早に繰り出されていく。
 その全てを聞き分け、応じながら背中の冷や汗を気持ち悪く思う。
 ここがクロスロードであればここまで焦りはしないだろう。信頼できる仲間も居るし強固な防衛線はあの悪夢を乗り切った実績を持つ。
「エンジェルウィングスに協力要請を。敵数の確認と空爆を行います!」
「飛行能力を持つ組員を終結させます」
 遠くからざわめきが聞こえ始める。事態が知れ渡り始めて居るのだろう。
 幸いとも言うべきは彼らが無力な一般人で無いことだ。混乱が小さいというだけでもありがたい。
「……」
 一通りの指示を終えて彼女はゆっくりと立ち上がる。
 自惚れるつもりは無いが自分はこの衛星都市でも上位の戦力を有するはずだ。ここで座しているわけには行かない。その上彼女の扱うゴーレムは損耗しても痛くない兵力である。
「防壁が出来た後でよかったと言うべきでしょうかね」
 ぽつりと零して仮設事務所を出る。
 月が変わらぬ夜だと言わんばかりに静かに輝いていた。それを様々な思いを秘めて、されどただ見上げ、彼女は荒野へと赴く。
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