雨は嫌いです。
私達の仕事は緊急対応ですからどうしても移動速度を求められます。飛竜はそれに適した乗り物であることは間違いありませんが雨の際にはその速度が疎ましく感じるものです。
翼の速度が生み出す世界。雨合羽なんてあっさりと仕事を放棄し、一回飛ぶだけで体中ずぶぬれになってしまいます。特にティアさんはそのボリュームのある髪が盛大に濡れて重くなり、歩くのも辛そうになります。
その時だけ髪を編む彼女が可愛いらしいのですが、まぁそれはさておき。
このクロスロードの気候は日本に大変似通っています。
六の月───それはつまり梅雨の季節で。
今日も空は灰色に染め上げられています。
「はぁ」
少女は傘を片手にどんより空を見上げた。早朝からの雨は止む気配がなく、地面を暗い色に染め続けている。
いつもは多いに賑わうヘブンズゲート前広場も今日はやや閑散としている。雨の日に外出を控えるのはどこの世界も変わらないらしい。
路面電車の駅には順番待ちの列。いっそそのあたりの飲食店に入って時間つぶしがてら夕食でもとろうかと考えていると、不意に視界の隅に動く物があった。
人間であれば5、6歳程度の女の子だ。路地の影から周囲を伺う姿は雨に濡れぼそり、警戒露な瞳には活力が見られない。唇は紫色で顔色も悪いのは人型の種族では体調が悪い……というか単純に雨に濡れ体が冷えているのだと察する。
アリスはその姿にまず疑問を覚える。これが他の世界であれば浮浪者と結論付けるところだが、ここはクロスロードだ。来訪者には例外なく住居が与えられている。それがどうしてこんな所まで来て濡れ鼠になっているのだろうか?
誰かを待つのならどこかの屋根の下に逃げ込めばいい。身なりはお世辞にも良いとは言えないが探索者が行き来するこの付近の店で多少の汚れくらい邪険にする理由にはならない。
ざあざあと降りしきる雨の音を聞きながらアリスはぼんやりと少女を見つめる。
一度気にしてしまうと中々離れられない性格をしている彼女は雨空を見上げ、それから体の中に囁きかける。不意に、ぴょこんと足元に子ウサギが現れてきょろきょろと周囲を見回し始める。コケティッシュな動きに彼女は目を細めた。
「お願いしますね?」
アリスを見上げたウサギが鼻をひくひくと動かして軽快に走り始める。よくよく観察して見ればウサギの体は雨を通り抜けさせているのがわかるだろう。幻影────光で構成されたそれは彼女の眼として路地へと近づいていく。
充分に近づいたところで片目にウサギの視界を写す。
年のころは多く見て10歳程度。全体的に薄汚れている。酷く転んだのか左の袖が擦過で破れ、赤黒い物を滲ませているのも見えた。酷く憔悴しており、手負いの獣という雰囲気だ。
何か事件にでも巻き込まれたのだろうかと心配になった所でふらりと少女の体が傾ぎ、そのままどさりと倒れてしまう。
「え? ええ?!」
不意に素っ頓狂な声を挙げたアリスを周囲が不思議そうに見るが、それどころでない彼女は慌てて少女の方へと駆け走る。
そうして抱き上げた体は力の無い彼女でも細く軽いと感じらるほどだ。衰弱は激しく呼吸は熱に浮かされて荒く、だが弱弱しい。
「どうしてこんな状態で外になんか……」
と───そこでアリスは気付く。
「……PBは?」
握れば折れそうな手にPBの姿は無い。他のアクセサリーに変えている様子も無い。もしかして腕輪以外の形にした後で落としてしまったのだろうか? そんな想像をかき消すように、路地の奥でざっと水を蹴る音が響く。
「……何も言わず聞かず、その少女を置いていけ」
「……」
雨合羽に身を包んでは居るが、そのがっしりとした体付きは武人のそれと分かる。自然体に見えながらもミリ単位で間合いを調整した男はずんと腹に響く声で続ける。
「さもなくば君ごと斬らねばならん」
「お断りします」
迷い無い返答に男の眉がぴくりと跳ねる。
「中々気が強い。だがその子は災厄の種だ。あるいは君もそうなりかねない」
「……回りくどい言い方をされても納得なんてできませんよ?」
言いながら光を屈折させ、自分の虚像をその場に残す。
「動くなと言っているだろうに」
「っ────!」
切っ先が正確に、見えないはずのアリスへ向けられていた。
「幻術の腕前には驚いたが気配を消せぬようではな」
「ちょい、どっさん、何してるのさ」
背後からの声。退路をふさがれたと嫌な汗が流れる。
「って、ああ。なんか他の人居るし」
「面目ない」
「もー、どうすんのさ。下手したら被害者が増えるよ?」
武人とは真逆の明るい声。
「被害者ってどういう意味ですか?」
「……ま、検査受けてもらわなきゃなんないし言っちゃうけど。
その子は感染者で侵入者なの」
感染者、はさて置き『侵入者』の意味するところが分からず眉根を寄せる。
「とある世界のバカがこのクロスロードを支配しようとして感染型の呪いを仕込んだ難民を大量に放り込んできたの。
あたし達はその駆除係。理解したならさっさとその子を離して、あんたは感染してないか検査を受ける」
素っ気無く言われて腕の中の少女を見る。扉の園からクロスロードに入るには入市管理場を通るように思われているが、実際その垣根は植物の蔦で出来た壁があるだけだ。サンロードリバーに面するところを除けば入市管理場を通らない事もそう難しい事ではない。
「呪いを解くことは出来ないんですか……?」
「出来るけどするより殺した方が早いもん」
「ヒミカ……っ!」
どっさんと呼ばれた武人が窘めるように鋭い言葉を放つ。
「事実だよ。感染致死型の呪いなんていちいち解除してたら神官の方が先に感染しちゃうよ」
「貴方達は何者ですか。管理組合の人ですか……?」
「質問はそこまで。こっちからの質問に答えてもらえるかな?
その子を離して検査を受けるか、その子と一緒に死ぬか。あと3秒」
2、1と容赦なくカウントを進め、仕方ないと武人が腰を沈める。
「ゼロ」
迷い無い刺突。細い二人の体など難なく貫く突撃。
「《鏡の国》っ!」
「っ!?」
刃がその身に届く刹那。武人の前に現れた楕円の姿見に切っ先が飲み込まれ────
「ちぃっ!?」
ぎちぎちと筋肉が鳴り、草鞋の紐が負荷に耐え切れずにはじける。そして切っ先は少女を庇うようにして背を見せたアリスに刺さるが────
代わりに鏡から飛び出した切っ先が武人の右肩浅く抉る。武人の傷はアリスが受けたものとほぼ同等。咄嗟に勢いを殺したがため共に傷は浅い。
「ずいぶんとえげつない技を使うっ!」
武人の視線に気付いたヒミカがえ?と脇を見ると雨粒が妙な跳ね方をするのを見た。
「姿消しの技だ。追えっ!」
「光使いなのっ!? もう、先に言ってよっ!」
「言う暇なんかないだろうがっ!」
そんな声を背に大通りに戻ろうとして『感染致死型の呪い』という言葉を思い出す。彼らの言葉を嘘と断じるのは容易いが、先ほどの違和感───PBを持っていない理由に説明が付いてしまった。
背中がずくりと痛むがそれも長くない。ぞわりと蠢く感触を無視してとにかく足に力を込める。
すぐ先はヘブンズゲート。助けを呼ぶのは容易い。でも────
「分別は付くみたいね。そこから飛び出せばあんたは殺人鬼だよ」
「……っ」
横道は無い。取って返すにしてもあの武人を突破できる自身がない。
「なにをやっとるか」
呆れを多分に含む三人目の声。
「悪いのはどっさんだもん……」
その聞き慣れた声音に安堵と、それ以上の疑問が浮かぶ。
「ティアさん……?」
空を舞う少女が振り返りアリスと視線を合わせる。
「知り合い?」
「まぁのぅ。説明は?」
一旦アリスから視線を外したティアはヒミカにいつもの無面目で問う。
「したよ。一応そこから飛び出すのに躊躇いは覚えてくれてるみたいだけどね」
「なれば話は早い。アリスこやつらの語る言葉は事実じゃ」
視線を彷徨わせる。だからとまだ生きてる子を殺すだなんて───
「この子を助ける事は出来ないんですか……!」
その懇願にティアはしばしの沈黙。それから諦めたように「……できる」と呟く。
「ちょ、ティアっ!?」
「こうなればその方が早いじゃろ。このままアリスにまで感染した挙句逃げられたら面倒じゃ」
ヒミカはむうと唸り「……そりゃそうだけどさぁ」と武人へ批難の視線。
「……そもそも俺の失態だ。ティア殿の意見に異論は無い」
もー、と不快感全開でため息。それから肩を一つ竦め
「OKOK。事後処理はティアっち全部やってよ?」
と、背を向ける。
「うむ」
頷いてふわりと地面に降りる。彼女の周りには飛行の魔術に伴う風の膜があるらしく雨に濡れている様子は無い。
「ティアさん……」
「まったく、妙なところに出くわしおって」
呆れ半分という感じだが、それはアリスだって同じ感想だ。だが文句を言わせる前に彼女は遠くを見上げた。
「ともかく急ごう。ぬしに感染する前の方が好ましい」
そう言って、続けて唱えたのは抗魔の術だ。多少でもという事だろう。
「わしはルティア殿に話をつける。それを連れては電車を使えぬからなるべくこちらに来てもらいたい。
土門、すまんが」
「……だったら13区画の集合場所だね」
知ーらないとばかりに顔を背けていたヒミカが言葉を割り込ませる。「そうじゃな、そこまで二人を連れてきてくれい」と苦笑を零す。
「わかった。……事情は?」
「話さんと納得せんやつじゃ」
土門と言う名の武人はヒミカの背に問いかけ、しかし反応が無いと見て頷いた。
「では後ほどの」
フリルとリボンにまみれた服を伴って少女の体が灰色の空の中に消えていく。
「行こう」
少女を渡せと差し出す手にはどこか優しさがある。先ほどまで纏っていた空気が僅かに晴れているのを察してアリスは素直に少女を託す。彼もまた自分の行いを最善だと思って行動していなかったのだろうと何となく思う。
それからつっけんどんな態度を通すツーテールの少女が何食わぬ顔をして着いてくるのを振り返らずに見て。
アリスは灰色の空を見上げた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「クロスロードは紛う事無き無法地帯だ」
降り止もうとしない雨の中、おもむろに土門は口を開く。紙で出来ているらしい不思議な傘は少女が濡れないように────自分の背を盛大に雨に曝して掲げられている。
「仮にここで俺がこの子を殺しても、それは俺とこの子の問題であり他者の干渉、公的な罪に問われる事はない」
そもそもこの都市に一般的な社会制度の中にある『公』は存在していない。
「ただ君がその事に対し賞金申請しても、管理組合の追加額はゼロに近いだろう」
クロスロードの賞金システムにおいて賞金額とは、申請者の出す額と管理組合が追加する額の合計金額となっている。管理組合の上乗せ額の基準はクロスロードの管理維持に対する影響の度合いにより査定される。
彼の言葉は間違っていない。個人に対する殺人はクロスロードにたいした影響を及ぼさないし、少女は呪いを負っている。逆にこの少女の討伐に賞金を掛けたほうが圧倒的に上乗せ額が上だろう。
「話を戻す。無法とは言え公的機関が無いとは言え、水際で治安維持に努める組織はどうしても必要だ。
今のクロスロードのシステムではどうしても対処療法でしかない」
それはこの少女の抱く呪いの事も指していた。十全信じるのであれば彼女を放っておくだけでクロスロードは大混乱に陥る。そしてその後で賞金を掛けて討伐しても後の祭りだ。
「……律法の翼、ですか?」
クロスロードに法と秩序を。その理念に基づいて活動する組織の名をアリスは口にする。彼女でなくともそう連想するだろう。だが土門は小さく首を横に振る。
「厳密に言えば私兵だ」
「厳密って言いながら回りくどいよね」
ヒミカが茶化すように口を挟んできた。いい加減黙ってるのも飽きたのだろう。
「あたし達の雇い主は個人。管理組合幹部の私兵で、管理組合が得た情報を元に動く集団」
『管理すれど統治せず』を掲げる管理組合のスタンスに反する行為だと率直に思う。
そもそも管理組合において『幹部』と呼ばれる人におおよそ心当たりが無かった。人々の認識の上では行政的な立場でありながらその統括者についての情報は皆無というのが管理組合だ。その理由としてどこか1つの世界を優遇しないためという建前を掲げている。公開すれば当然目端の利く者は擦り寄ろうとするし、例えそれを断ったとしても擦り寄ろうとした事実等が火種になる。
「良くも悪くもクロスロードという都市は成長し、十万人規模となりなお成長を続けている。様々な世界の様々な技術を内包する町。あらゆる世界へ続く扉を持つ世界。それが整備された上で存在しているのだから知って無視できる物ではない」
「だから今回みたいに乗っ取ろうなんて考えるヤツが出てくるの。なにしろ公式に治安維持組織も無ければ思想統制もしてないんだもん。法整備や議会設置を求める組織は大抵どっかの世界の工作員だし、律法の翼の過激派連中の何人かもそういう目的で動いてる」
土門が抱えている幼い少女を見る。疲労以上に元々良い生活をしていなかったのだろう。故郷の世界から兵器として送り込まれた哀れな犠牲者がそこに居る。
「あたしらは表向き……なんて看板は掲げてないけど、言うなら個人の勝手で侵略者と戦う正義のヒーローって感じかな」
皮肉たっぷりの響きに土門が一瞬咎める様に振り返り、だが何も言わぬまま歩を進める。
「で、あんたはどうするの?」
「……どうするって……」
「本当ならあたしらはあんたを殺してる」
躊躇いのない断言にアリスは息を呑む。そんな事はお構いなしとヒミカは言葉を続ける。
「ティアっちの知り合いだから生かしてるだけ。
もっとも、ティアっちが誰も彼も助けて何ていうお優しい正確だったらガン無視しただろうけどね」
そこまで言って苦笑を混ぜる。
「あの子はあたし達の立場をちゃんと理解してるし、あたし以上に必要な時は冷酷になれると知ってる。
だからその意図も大体分かる。あんたは分かってないの?」
それは確かにアリスの知るティアロットという少女の中身だ。冷静沈着で合理的。たまに情愛と言う言葉を本当に知らないのではないかと疑う事もある女の子。
「私にも協力しろとあの子は言うと思います」
「だろーね。あんたが表でティアっちとコンビ組んでる事も思い出した。
でも、今の今まで。こんな事がなければティアっちはあんたをこっちに誘おうとはしなかった。その理由がこの状況だよね?」
弱弱しく苦しげな息遣いが少女から漏れ聞こえる。
「あんた、今からその子殺せる?」
「ヒミカ……っ!」
咎める声を無視してヒミカはアリスを見つめる。
「あたしらはこういう事をする集団なんだよ。例えその個人に罪は無くてもあたしらはクロスロードを維持するために手を汚す。
あんたは考えた? その子にとってあたしらは恩人なんかじゃない。親兄弟、仲間を皆殺しにした悪鬼でしかないってことを」
「親兄弟……?」
「この十万都市を壊滅させようって言うのに一人だけ送り込むわけ無いじゃん。
その子は本当に運の良い生き残りだよ。あたしらの包囲網を潜り抜けて、アンタに遭遇し、そして一人になったから助けてもらえるようになった」
「……もし送り込まれて来たのがこの子だけであれば、俺は迷わず捕獲し解呪する方法を選んだだろう」
武人の口から漏れる悔恨を滲ませる言葉にヒミカは少しだけ口を尖らせる。
「百人単位の高度な呪いを受けた者を全て解呪する方法は俺達は持ち合わせていない。
では何人助ければいい? そしてそれは救いか?」
問いかけに答えは出てこない。
「あたしらの仕事はジレンマを抱えちゃだめなの。1人を助けたらどうして2人助けなかったのか。3人、4人ってなっちゃう。
ALL or Nothing シンプルにやらないと悔恨と火種だけを抱え込むだけになっちゃうの」
ててと少しだけ歩調を速めてヒミカはアリスの前に立つ。
「知ってる? 殺した者に生き残った者が望む残酷な言葉って」
それは────
アリスはすぐに思い当たった。彼女もまたその言葉を胸に抱いた事がある。
「謝罪の言葉も賠償も要りません。ただ、あの人を返してください」
それは余りにも深い切望。戻らぬと知ってなおその言葉は口に上る。
「もっかい聞くよ。
あんたはあたしらの仲間になれる?」
問いかけて、ヒミカは答えを聞く前に土門の横に並んだ。
自分がその問いを返す相手は誰か。理解しているアリスは無言のまま二人の後に続いた。