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『外伝』
序幕
(2010/1/29)
 進化に戦いは不可欠である。

 進化を端的に評すれば「何かしら優れた形に推移する」ということだろうか。そこには「比較」という言葉が連なる。「より良い」と判断するのに単独は有り得ない。
 進化には比較が伴い、それは競い合う事である。
 逆に説けば2つ以上の何かが同じ場所に存在した瞬間、比較は発生する。
 その最たる判定者は「時」だ。時の流れがある限り、存在は有限となり原初の「適者生存」が発生する。
 より優れたカタチを有した方だけが残る。残った物も時の流れの内に分化し、また競合し、淘汰される。
 協調、融和という言葉もあるがその大半は個とされている中の概念を比較し、協調できない部分をやはり淘汰して消え、機能の純化という進化をして居るに過ぎない。

 故に戦いの無い世界を想像する時、究極的に2つの案が持ち上がる。
 1つは「全てを一つにまとめる」。つまりは全を個にするということ。個である限り争いは起きない。
 もう1つは「全てを隔離する」。つまりは個と個のつながりを完全に断ち切るということ。これもまた個々の関係が無い以上争いは起きない。

 『平和な世界』を夢想する。

 「全てが自分である世界」と「自分が全ての世界」
 共に完全なる「孤独」。
 果たしてそこに幸せはあるのだろうか。

 ◆◇◆◇◆◇◆◇

「チィっ!?」
 忌々しげに吐き捨て男は身を捩る。真夜中だというのにサングラス。一際まばゆく輝く月光に今宵は友連れの姿を認める。
 手にしたのはアタッシュケースそれを盾の様に目前に掲げると一気に展開して名状通りの盾へと変貌する。何かしらの透明素材で作られたそれは視界を阻害しない上に強度も折り紙つきだ。
「ぉぉおお!!」
 襲い来る光を次々と受け流し、その担い手の姿を探す。
『ガ────ガガ』
 脳裏を走るノイズの音。まるでジャミングを食らったかのような通信状態に男の苛立ちは爆発的に増大する。
 無論彼はこの地の特性を理解している。それ故に彼が仲間から100m以上孤立した事が理解できた。
 ────理解したくない情報ではあるが。
 胸から大振りの銃を取り出す。40口径マグナム弾を当然のように腹に収めたバケモノを男の強化された腕は易々と扱いこなす。だが敵の姿が無い。
「畜生……っ!」
 逃げるべきかと己に問う。しかしほんの数分の戦闘から敵がとんでもなく厭らしい戦い方をしてくるのは分かっている。
 走り抜ける道は幾らでもあるのに追い詰められた。それは物理的な道ではなく思考と言う道。
 逃げるに背を向けられず、さりとてこの場に留まれば自分は囲まれるだろう。ここは相手のフィールドだ。
 すぐさまプランを変更。バックパックから閃光手榴弾を引き抜いて空中へ放る。脳に埋め込まれたマイクロコンピュータがサングラスと手榴弾の両方を制御。吐き出される爆発的な光量をシャットアウトして白に染まった世界に道を示す。
 こちらを伺っているのであれば今の光に耐えられないはずだ。微かに見た姿は生身の人間だったはずだ。
 背を向けた瞬間、その背中を一条の光が貫く。
「ばっ!?」
 心臓を打ち抜かれた体がそれ以上の言葉を許さない。消えていく視界の中、反射で振り返ろうとした首をもう一条の光が情け容赦なく駆け抜けもぎ取って行く。

 光が収まり、夜闇を取り戻した世界で少女はふわり舞い降りる。
『なんかめっちゃ光ったけど、大丈夫?』
「問題ない。単に目くらましを放られただけじゃ」
 応じる少女の装いをなんと評するべきか。
 銀嶺に応じるように輝く髪がふわりと踊り、小さな体を包む黒の───ゴシック調のドレスに降り注ぐ。
 年の頃は人間種ならば10かそこら。足元に広がる惨劇の後をまるで無視したかのように優雅に舞い降り天を仰ぐ。
「そちらはどうなんじゃ?」
『ばっちしばっしち。このヒミカ様の天才的な指揮を舐めてもらっちゃぁ困るなぁ』
 黒服を纏う少女の古風じみた言い様も異様だが、イヤーフォンから響くやけに甲高く『少女』を強く思わせる声音もこの月夜に不似合いと言うべきか。
『で? そっちは持ってそう?』
「いや……」
 少女は足元の死体を無遠慮に眺め、転がる盾を軽く蹴る。
「それらしい物は持っておらぬな」
『んじゃ最後の一人か』
「応援は必要かえ?」
『大丈夫っしょ。つーかあの人ムダにプライド高いから下手に手出ししない方がいいよっ!?』
 声が乱れる。どうやら「あの人」とやらとは通信可能範囲内に居るらしい。それもそうだろう。イヤーフォンの先の少女は指揮官兼管制塔として彼女らの中心に位置取りし続けている。軽快に話をして居るが彼女は現在進行形で町の中を走っているはずだ。
『もー! じゃあ、そっちは戻ってOK。こっちで後始末するから』
「わかった。ではの」
 ふうと吐息をもらし点を見上げる。足元に広がる美しい魔法円。やがて降る黄金色の雪を見上げて彼女はゆるり惨劇の場を後にする。
ヒカリ ノ
(2010/2/24)
 四方砦。
 クロスロード防衛の前線基地であるその場所は毎日賑わいに満ち溢れている。
 昼夜問わず探索者が訪れ、それぞれがその日割り当てられた巡回ルートに繰り出し、また帰還した者は報酬を受け取ってクロスロードに帰っていく。
 そのため砦には『怪物』の死骸を狙い待機する通称「葬儀屋」や、入れ替わり立ち代り訪れる彼らをターゲットにした店がひしめいている。多い時で千人を越える人がこの砦に集まるのだから雰囲気はちょっとした町となっていた。
 折角なので概要を説明しておこう。
 まず中央に管理組合預かりの施設がある。砦という名称にはそぐわない公民館的な建物で、防衛任務を受ける探索者向けの受付カウンターや商業地の割り振りを行っている。
 この施設の内部にはいくつか会議室もあり、ミーティングや『怪物』を討伐して持ち帰った死骸の値段交渉などに貸し出されている。
 裏の広場ではこれから出発する探索者たちが設えられた案内看板でルートを確認したり、荷物の点検を行ったりしている姿が昼夜問わずに見ることができる。
 植樹の壁を隔てて、施設の外には駐車場がある。と言っても車だけではない。馬車や竜の姿もあり、エンジン音や鳴き声で賑やかしい。
 さらに外縁に向かうと1つ道を挟んでいくつかの小屋が並んでいる。それらには医療施設や古参の武具屋、飲食店などが並び、砦を訪れる探索者にサービスを提供していた。
 それらの店舗を囲むように高さ10mの無骨な壁が円形に取り囲んでいる。その直径は約500m。荒野の真ん中にどんと鎮座する壁は防御の要である事を見る者に刻む。
 本来『砦』はここまでを指すのだが、商人の商魂とは本当にたくましい。各砦の外縁にはぐるり露店が立ち並んでいる。扱う品物の殆どは消耗品か食料品だ。砦の中にある店よりも出所が怪しい物も少なくないが、安価であるこれらを買い求める探索者も多い。
 ちなみにこれが西砦と東砦になると少々趣が異なる。
 というのもクロスロードの東西にはサンロードリバーの流れがある。東砦は川の南側、西砦は川の北側にあり、どちらも川からは500mほど離れている。これは正体不明の『海魔』を警戒してのことだ。
 だが、水の恵みを完全に放棄することもしていない。サンロードリバーから引かれた水路が砦を迂回するように流れており、水堀と運路の役目を担っている。池のように広く掘られた場所に船着場を設置しており、水路を使った運輸や、対岸への渡河を行っている。
 サンロードリバーと水路との境には水系の怪物の侵入を遮るための立派な水門が設置されている。
 この両砦の露店は防御壁と水路の間に広がる形で賑わいを見せていた。
 この四方の砦はクロスロード成立から一年半、静かに時を刻み続けている────いずれこの地から巣立ち広がるための基点として。

 故にこの四方砦を総じて「揺籠」と呼ぶ者も居る。

 ◆◇◆◇◆◇◆◇

 ここ南砦はヘブンズゲートを真っ直ぐ南下した位置にあり、四方砦の中では一番の賑わいを見せる。
 施設の屋上からそんな賑わい───人が語り合い、行き交う光景をぼんやり眺める少女が居た。屋上の縁に腰掛けて長い髪を風に遊ばせている。
 彼女はこの場では少し特殊な存在だった。下で賑わう探索者は変な言い方をすれば「その日の気分で」ここに集まり防衛任務に赴くが、彼女に関してはこの南砦の専任であり、他の仕事をする事は滅多に無い。
 これは南砦に限った事でなく、各砦に彼女と同じ立場の人間が十名程度専属契約を結び常駐している。
 彼女らの共通点は広範囲攻撃のスキルを有している事。
 大型の怪物は単独や少数で行動する場合が殆どだが、ゴブリンやコボルト、オークなどの小型妖魔系や昆虫系の怪物は時に数百もの大軍となってクロスロードを目指し襲来する事がある。いくら1匹1匹が弱くとも、少人数のパーティでは飲み込まれてしまう事もままある。そんな相手を一掃するための邀撃要因が彼女である。
 女の子はウェーブを描く銀の髪に翠色の瞳。フリルとリボンがこれでもかと付けられた甘ロリの服に身を包み、まるで西洋人形のような無機物じみた美しさを風に遊ばせている。
 年の頃は10に達しているかどうか。童女と呼ぶに相応しい体躯である。
「あ、ティアさん」
 ひょっこり屋上の戸を開けて少女が顔を覗かせる。
 銀の娘を見止めてやってきたのも15かそこらの娘だ。ハニーブロンドの髪に青空を切り取ったかのような瞳。全体的にほっそりとした肢体を可愛らしい冬物で包んでいる。
「B班が出たから待機要請着てますよ?」
「知っておるよ。ここならよう見える」
 振り向かずに女の子は応じた。年相応のやや甲高い声だが老人のような落ち着き払った口調で応じる。無理に作ったような違和感は無い。これが彼女のデフォルトだ。
 と───不意に「ぽん」と乾いた音が空に響き、赤の煙が空に三つ花開く。
「要請じゃな」
「ですね。行きましょうか?」
 この多重交錯世界では大体100mを超えると通信の全てが届かない。故に狼煙や煙花火が普通に用いられている。
 それを見上げながら銀の少女は呟くように言葉を紡ぐ。
「そもそもなアリスや」
「はい?」
 ゆっくりと首を巡らし、深い知性を伺わせる瞳を髪の間から向けられて金髪の少女はきょとんと小首を傾げる。
「ぬしの方が遅いんじゃよ」
 言うなりとんと身を躍らせる。三階建てとは言え、握れば折れそうな手足の少女が無事で居られる高さではない。だが、彼女の体は重力のくびきをあっさりと断ち切り、ふわりと地面に着地する。そうしてそのまますたすたと駐車場の方へ歩いていってしまう。
 その光景をぽかんと見ていた金の少女ははっとして────
「あ! ま、待って下さいよっ!?」
 女の子の言う通り、結局自分の方が出遅れてしまった少女は「ずるいですよぉ」と泣き言を漏らしながら施設内を駆け抜けるのであった。

 ◆◇◆◇◆◇◆◇

「居ました」
 飛竜の上から目を凝らしていた少女───アリスは風に負けないように叫びながら竜に降下を指示する。
「ふむ。多いのぅ」
 ただでさえ髪や服で風の抵抗が大きい女の子───「ティア」ことティアロットは身を低くしたまま横目でその光景を確かめる。
 眼下では百を越える蟻の群れが土煙を上げて爆走している。蟻と言っても指先に乗るような可愛らしいサイズではない。体長2mその鋭利にして頑強な顎はあっさりと骨を砕いて断ち切り、吐き出される酸は皮膚も筋肉もどろどろに溶かしてしまう。
 掃除屋とも揶揄されるジャイアントアントが群れを成していた。
「まぁ、だから私たちの出番なんでしょうけどね。
 えーと、いつもどおりで良いですよね?」
「特別な事をするつもりも無いよ」
 そっけない解答にアリスは苦笑を漏らして竜を操り、逃走を続ける探索者の鼻先に着陸するように命じた。
 全長3mはあろう騎竜が翼を大きく羽ばたき垂直降下に移る。その光景を視界に捕らえた探索者の一団がこちらへと駆けつけてくる。
「ふむ」
 先んじてぴょんと飛び降りたティアがすぐさま処刑鎌に似た杖を地面に突き立てる。瞬間───魔法陣が広がり、続いてその切っ先というべき場所に光が集まり始めた。
「頼んだぜっ!」
 騎竜の横を駆け抜ける探索者が声を掛けていく。アリスはそれに笑みで応じながら自分の中の力に呼びかける。
「行きますっ!」
 ぞくりと体の中が奮え、そして『世界』が変貌する。
 彼女の足元を中心に広がるのは森。そして背後にあるのは城。蟻の集団は突如目の前に現れたそれらに驚き足を止めた所で自分達が取り囲まれている事に気付く。
 それは体がトランプで槍を構えた兵団。不思議の国のアリスに出てくるトランプの女王の兵士達だ。
「穿ちなさい」
 アリスの命令に従い、一斉に突き出される数多の槍。
 それは無慈悲に蟻を串刺しにしていく。もちろんただやられるほど甘くは無い彼らは咄嗟に避けようと、そして反撃しようとして悉く失敗する。
 槍を避けても衝撃が強靭な体躯を穿ち、反撃と繰り出された強靭な顎も、蟻酸も、トランプの兵をすり抜けてしまったのだ。
 そして『世界』は崩壊する。
 作り出された幻想世界。その裏に隠れて猛威を奮ったのは石の槍。それは兵士の奮ったそれとは全く違う方向からジャイアントアントの体を貫き、大地に縫い留めていた。
「ティアさん」
「うむ」
 槍に貫かれ、また足を穿たれて縫い付けられた蟻が天より舞い降りる雪を見る。
 黄金色の雪。再び起こる幻想風景に興味などないかのように、もがいて石のくびきから抜け出した蟻達は獲物への殺到を再開する。

 が、すでに全ては終わっている。

 ────《輝夜(カグヤ)》

 人形のような精緻な面持ち。小さな唇の放つ一言で黄金の全てが炎熱の使徒と化す。
 見る間に炎が広がり、容赦なくその体躯を焼き焦がしていく。石の槍に貫かれ、大怪我を負っている蟻にその炎熱を耐えるほどの体力は残されていない。
 次々と崩れ落ちる蟻の群れを伺い見ながら、銀髪の娘は満足するでもなくMPポーションを引き抜く。
「どうじゃ?」
「はい。全滅してますね」
 石と光を操る娘がその場から動く事無く全周を確認し、ほぅっと安堵の吐息を漏らす。
「やはり女王種がおるんかのぅ?」
 ようやく警戒を解いてティアが呟く。アリスはちょこんと小首をかしげ、
「どうでしょう? そういうのって巣に籠ってるんじゃないですか?」と応じる。周囲をきょろきょろと見回すが、特にそれといった敵は見当たらない。
「やもしれぬな。しかしジャイアントアントの巣となると生半可な迷宮よりも深そうじゃな」
「入る気ですか?」
「生態には興味があるのぅ。蟻はようできた生き物じゃからな」
 物好きだなぁとは口に出さずアリスは苦笑。ふと何かの本で見た幼虫を思い出してぶんぶんと記憶を振り払う。
「よぅ。お嬢ちゃんたち。助かったよ」
 騎竜の少し先でへたり込んでいるパーティから、リーダーらしき男がひらひらと手を振りそんな言葉を掛けてきた。全力疾走で逃げていたのだろう、誰も彼も随分と汗まみれである。 
「最初は数匹だったんだが、いきなりどばっと来てな」
「それは災難でしたね。……うう、ホントに巣でも作っちゃったのでしょうか?」
 振り払えない記憶が再燃して嫌そうな顔をするアリスに男は苦笑して
「まぁ、そんときは頼むわ」と気楽に肩を竦めた。
 ひと難去っての弛緩した空気。それを打ち砕くように彼方でぽぽんと音が響き、空に青と赤の煙が昇った。
 それを眺め見た二人の少女はお互い少しだけ眉根をひそめ
「最近多いのぅ」
「ですね」
 と言葉を漏らした。
「ん? あれはどういう意味なんだ?」
 信号の意味を知らない男が首を傾げる。
「別の班への出動指示ですね。別の場所でもMOBが出たんでしょう」
 MOBとは何時の間にやら使われ始めた言葉で「1匹1匹は弱いが集団で現れる怪物」という意味である。
 一人の腕利きも三人の敵を同時に相手にするのは難しい。これが十にも二十にも、それよりも更に多くなってくると始末に負えない。
 実際この男も数匹程度ならジャイアントアントと渡り合うだけの実力はあるのだろう。それが100ともなればいくらなんでも体力が続かない。
「戻りましょうか。この分だともう2回くらいは出動がありそうですし」
「……そうじゃな」
 やれやれと髪をかきあげ、ティアはゆっくりと騎竜の方に戻っていく。
「では、お気をつけて」
「ああ、そっちもな。ありがとよ」
 気の良い礼を受けてアリスは微笑みながら頭を下げた。
「リーダー、あの子達すげーっすね」
 男の仲間が翼をはためかせる騎竜を眺めながら呟く。
「まぁ、専門家だからな。でも、別に卑下する必要は無いぞ?」
「卑下なんて……」
 リーダーよりもかなり若い男は事実のままだという顔をするが
「彼女らはある意味特殊なんだ。何と言うかなぁ……」
 リーダーは頭を書き
「お前、水を飲むのに桶を使うか?」
「桶ですか? コップでなく?」
「つまりそういうことだ。俺達はコップ。水を飲むならそれで充分だろう?
 彼女らは桶なんだ。大量に水を汲む時には有効だが、ちょっと水を飲みたいだけの時には無駄な労力になる」
「はぁ……」
 なんとなく言いたい事はわかるけどなぁと若い男は曖昧な頷きを返す。
「ほら、銀髪のほうのお嬢ちゃんは直ぐにポーション引っこ抜いてただろ?」
「ええ」
「つまり1発で弾切れ。多分金髪の方が足止めしてたから呪文詠唱にも時間がかかるんだろ」
「色々制限があるってことですか?」
「そういうことだ。凄いのは純粋に凄い。だが、その凄さを勘違いするな」
 頭をぐりぐりとやられて若い探索者は嫌そうな顔をしながらも、その言葉を胸に受け止めた。

 ◆◇◆◇◆◇◆◇

 わたし───アリスは無自覚な来訪者です。

 私がこの世界にやってきたのは折り悪く前歴2年の半ばのことでした。
 『ヴェールゴンドの大征』と呼ばれるある世界からの軍事侵攻に対し、永遠信教世界の天使も大挙し激突。『扉の園』は苛烈な戦火の真っ只中にありました。
 降り立った『扉の園』はそこらかしこに弔われぬ死体が転がる地獄であった事を今でも覚えています
 自分の居場所すらも理解できぬまま、まるで空襲の中を逃げ惑うように彷徨った私は、とあるコミュニティに拾われます。そこでようやく私は「この場所」を知る事になります。
 多重交錯世界ターミナル。信じられない事に全くの異世界に居ると言う事を。

 実は、私は元の世界に居る時から自身に関する記憶を有していませんでした。
 アリスという名前も恩人から頂いた物です。出自を辿る最中、気付けば私はここに居ました。
 『扉』の事を知らなかった私は混乱するままに彷徨い、帰り道である自分の世界への扉を見失ってしまったため帰るに帰れなくなってしまったのです。
 この時期、多くの来訪者は自らの世界に帰還しており、残っているのはヴェールゴンドと永遠信教が支配域とする場所に故郷への扉があるなどの理由で帰れなくなった人たちでした。
 彼らは身を守るためにいくつかのコミュニティを形成し、戦火を避けるように暮らしていました。
 行くべき場所、帰るべき場所の無くなった私は、そういったコミュニティの1つに拾われ、暮らす事となったのです。
 それから二ヶ月ほど過ぎた頃。起きるべくして事件は起きました。
 両軍の戦力は拮抗し、戦線は膠着。毎日小競り合い程度の戦闘が続く中、ヴェールゴンド軍の略奪行為が目に付くようになってきたのです。
 待機中の兵隊が戦場に居続けるというストレスと、長期間の大軍勢の維持への限界からか、目に見えて減った配給に暴走し始めたのでしょう。
 ヴェールゴンドは戦争に多くの傭兵を用いていたため、その被害は飛躍的に増大していったのです。
 その猛威が私が住むコミュニティにも訪れたのも早いか遅いかの違いだったのでしょう。
 数十人からなる獰猛な傭兵団に対し、基本的に非戦闘員の集まるコミュニティでは到底抗えるはずもありません。
 僅かに戦える人が抵抗したものの、一人、また一人と傷つき倒れていくだけでした。
 傭兵達にとってその殺戮はゲームでした。取り囲み、囃し立て、嬌声を挙げていたのです。

 私は、どうしようもない恐怖の中で胸の中からわきあがる衝動を覚えました。
 昨日まで笑っていた人が、優しくしてくれた人が無残に傷つけられ、倒れていく姿。心臓が十倍にも二十倍にも大きくなったかのように鼓動が体を震撼させました。
 正直、そこから先はあいまいにしか覚えていません。
 ただ私はその日、初めてこの世界で自分の力を使いました。
 現れたのは幻想の王国。従うのはトランプの兵団。
 何も持たない自分が唯一持っている力にして、実験体であるという咎。
 その全ては突然の変化に驚き戸惑う傭兵達を容赦なく串刺しにしていきました。
 逃げ惑おうと、泣いて慈悲を請おうとその時の私には何も理解できませんでした。ただ、大切な物を奪い笑う者を殺さねばならない。それがその時の私だった……ぼんやりとそう覚えています。
 ヴェールゴンドの傭兵達は全て磔刑に処されました。地面から突き上げた石の槍で貫かれ息絶えたのです。
 静まり返った惨状の真ん中で私は衝動に突き動かされ続けていました。
 もっと壊せともっと殺せと自分の中から呼びかける声に────

 大きすぎる悲しみに抑制を失った衝動の中、私は私を見るコミュニティの人たちの顔だけをしっかりと覚えています。
 それは圧倒的な暴力に対する純粋な恐怖。たった一人で命を蹂躙せしめた者への畏れが私を貫き、心を砕いたのです。
 すがる場所すら失って、ただ衝動だけが胸を激しく突き動かしていました。
 もっと壊せと。

「良いから正気に返れ」

 今思い返しても後頭部が痛くなるのですが……
 その女の子は誰もが遠巻きに見る中、無防備に私に歩み寄り、まったく躊躇せずに手に持った処刑鎌────に似た杖で私の頭を殴ったのです。
 頭が真っ白になった私はじんじんと響く痛みと、目の前の呆れ顔をしている女の子にわけが分からなくなり……

 ────だけど、私はかろうじて「私」であり続けることができたのだと。心の奥底で納得しました。

 それから早いものでもう2年の月日が流れました。
 解き明かせぬ謎はこの異郷で分かるはずも無く、しかし自分の力を厭う事無く生きています。
 力がある事を畏れるよりも、誇る事よりも。ただ自分が正しいと思う事に利用すれば良い。
 こんな事を言われ、そして目の前で実践されては返す言葉なんて見つかりませんでした。
 やがてガイアス軍の参入を経て『大襲撃』という難事を潜り抜けた私は、いつしか過去の自分を省みる事をやめていました。

 不思議の国のアリス。
 大事な人から貰った名前はこの不可思議な地に迷い込むきっかけだったのでしょうか。
 ───このアリスは不思議の国を自分の新しい世界として、生きています。 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇

 クロスロードの一角に古めかしくも荘厳な建物がある。
 軽く見ても50年は風雨を受け続けたような歴史を感じさせる建物には多くの蔦が絡みつき、苔むしていた。
 少々頭の回る人はふと疑問に思うだろう。少なくとも3年以上前には存在していないはずのこの街で、どうしてこんな古めかしい建物があるのかと。
 実のところクロスロード建設時、この場所には大きな公園が設立される予定だった。大襲撃よりこの街に居た人はこの場所に植樹がされていく様を思い出すことも出来るだろう。
 しかしある日のこと。この建物はさも当然のようにこの姿でこの場にあったのである。
 色々と推測が推測を呼んだものの、結果だけ言えばこの混沌の街クロスロードは不思議な建物は街の一部として受け入れた。ここはそういう場所だ。
 以来「どうせあるのだから」と学者や本好き、本にまつわる者が自然と集まり、そして本そのものも際限なく集まり始め、ここは名実共にクロスロードの知識箱となったのである。

 アリスは週に2度3度、ここを訪れる。と言っても目的は本を読むためではない。
 整備され不快な音を立てる事もない扉を押し開くとつんと図書独特の香りが彼女の鼻腔を突いた。
 足元には小豆色の絨毯。1つ目の扉の先にはもう1つ扉があって、外気を多く取り込まないようになっている。
 押し開くと少しだけ気温が下がった。やや薄暗い、空調設備で室温と湿度を管理された空間。ロビーをまっすぐ進めば受付カウンターがあり、司書が数名来客者と話をしているのが目に留まった。
 視線を転じて左手を見ると読書用のスペースがあり、そちらは窓や蛍光灯が設えられている。その他とのギャップが図書館ならではの雰囲気を強くしている。
「あ、すみません」
 アリスは傍らを歩く司書を呼び止める。
 この大図書館の司書は本好きのボランティアが担っている。その数もいつの間にか増え、『司書院』という一つの組織としてクロスロードでは認知されている。
 司書院には本の化身や本を読むことで生きながらえているような特殊な存在も居て、自分の本体がここにあったり、実質ここに住んでいる人も多いらしい。
「ティアロットさん、呼んでいただけますか?」
 呼び止めた女性は艶やかな黒髪の東洋人的な顔立ち────日本人形を思わせる大和美人だ。きっと和服を着せれば映えること間違いないがここでは統一された司書の制服を纏っている。
 ちなみに、普通はこのような呼び出しが受け付けられることはない。場所が場所なので館内放送をかけるというわけにも行かないからだ。
「ティアロットさん? ああ、はい」
 しかし彼女に関してはこれがまかり通る。と言うのも
「午前中は書庫整理の指導をされていましたけど、今どこかしら?」
 司書の方が小首を傾げて「ちょっと待ってくださいね」と微笑み、カウンターの人となにやら話を開始する。
 ティアは『司書院』のメンバーでは無いらしいのだが、そうと知らない司書さんは非常に多いらしい。それほどここに長く居座り、色々と関わっている人なのだ。
「多分下層の危険区域じゃないかということです」
 戻ってきた司書さんがなにやら図書館と言う場所に似合わない単語をさらりと口にする。
 以前聞いた説明によると
「魔法的なトラップや呪いがかかったもの、純粋に「私達」のなりかけ等の本が納められている書庫です」との事。
 ちなみにアリスにそう説明してくれたの文車妖妃という妖怪種だった。
「お呼びしたほうが良いですか?」
「できれば……」
 なにしろ歩いていると呪いの言葉が聞こえてきたり、手が伸びてきて引きずり込まれそうになったり、本から出てきた魔物や妖怪に襲われたりする。探索者としての戦闘能力を有していても正直足を踏み入れる勇気はない。
 ……もう図書館でも何でもないと思うんですが……いっそ魔宮とか迷宮とか言った方がしっくりくるような勢いです。
 気付かれない程度にため息を付き、アリスは視線を周囲に向けた。
 ちなみに地上部分は真っ当な図書館。ただし外観を遥かに越えた棚の量、そこに納められた蔵書の量は計り知れない。
 ともあれ、一度だけ突入したアリスは完全に懲りて以降はなるべく呼び出しをお願いするようにしているわけだ。
「分かりました。ではしばらくお待ちください」
「はい」
 アリスは頭を下げて、閲覧室の方へ向かう。
 ティアロットが出てくるまで十数分は必要のはずだ。それまで何かを軽く見ておこうとゆっくりと足を進めた。

 ◆◇◆◇◆◇◆◇

 大図書館にはいくつかの俗称がある。
 そのうちの一つが「ラボ」じゃな。
 余り知られてはおらんが大図書館の下層、地下は3階まであり、1、2階にはいわくつきの本が納められておる。
 では第3階層はと言うと、そこには本来「閲覧室」として作られたフロアが存在しておった。
 地下にある本は様々な要因により安易に外に持ち出せないシロモノばかり。故に閲覧も地下で行うというのがそもそもの目的だったのじゃが、利用者はほぼ皆無じゃな。英知を求めて何人かの賢人が足を踏み入れる程度であったの。
 ここは酸欠や湿気が溜まるのを避けるべく空調は整備されておるんじゃが……何よりそこから「出てはいけない物」まで循環させないために、空気を含む全ての経路にこれでもかと結界が敷かれておる。当然の処置とも言えるがこれが利用者の居ない最たる理由になった。
 ただでさえ閉鎖された空間に封印が何重にも施された結果、この場はに訪れた五人に一人くらいの割合で過呼吸に陥ったりパニックになったりしたんじゃと。結局まっとうな連中が足を踏み入れる事はなくなったのは当然じゃな。
 だが世の中変な事を思いつく連中なぞいくらでもおるようで、この厳重な結界は核攻撃でも防ぎ切れると目をつけたまっとうでない学者達が乗り込んできおった。図書館側も「読まれる」事で満足する存在との折り合いや、どうせ未使用ならとこれを許容。若干の改修ののち、第三階層は「ラボ」と呼ばれる特殊な研究施設に変貌した。
 上にはまともな本も含め充実した資料が揃っている事もあり、ここでの研究を希望する学者は後を絶たないらしい。───まぁ、前述の通りの環境が改善されたわけではないからここに巣食うのはどういう連中かは推して知れる。
 結果、深刻なケミカルハザードやバイオハザード、マジックハザードを発生させる研究もされているという噂もあるが、真偽は定かではない。
 ちなみに地球世界におけるABC───つまり「アトミック」「バイオ」「ケミカル」の三大凶悪兵器にクロスロードでは「M」と「W」が追加されている。「マジック」と「ラース」、魔道兵器と怒り(天罰)で、ラースはカース(呪い)と読み替えてCかM(ひっくり返してW)が2つと言う事で「ABC2M」とも言われておる。
 ケイオスタウンの「果て」以上に凶悪にして厄介な場所かもしれぬな。
 わしにとって幸いと言える事柄と言えば貸し出し制だった閲覧室が占有できるようになった事かの。
 長テーブルにパイプ椅子、それからホワイトボード。ちょっとした会議室とも言える空間。そこでわしは長テーブルには数冊の厚い本を積みつつも、ページをめくり続けていた。
「ティアロット嬢、お客様が来ていますよ?」
 一人きりだったはずの部屋に2人目が佇んでいた。同じブロンドでもアリスとは違い、やや色は濃くふんわりとしたウェーブのかかったそれを首のあたりでひとつにまとめて背に流してる。
 メリハリのある肢体は解放的な服に着替えればさぞや見栄えがするじゃろうがの。
 サンドラ・リーブラリィ。この大図書館の司書長である女性は読み終わった本を手に取り、わしにそう声をかけた。
「ふむ? アリスかや?」
「ええ。約束でもなさっていましたか?」
「……いや、覚えは無いの」
 今日は非番のはずじゃし、余程の有事でも当番の者だけで対処できん事は無い。討ち漏らせばその被害は甚大になりかねんから常に余剰気味に配置をしておる。
 ……まぁ、その割には出動回数が増えておるのが気に掛かるが。
「では食事や買い物のお誘いでは?
 ……彼女は貴女に依存している節がありますから」
「ふむ」
 指摘されるまでも無くそういう傾向はとうに理解しておる。それ故になるべく非番の時には顔を合わせないようにしておるんじゃがな。
 付き合いはもう二年ほどにもなる。あれも世界が世界なら成人として認められても良い年なのじゃがな。
「でも、良いのではありませんか? 貴女は効率的過ぎますから」
 どこか責めるような物言いにわしは「ふん」と肩を竦める。
 こやつが言いたいのはまぁ、わしの生活のことじゃろ。買い物も食事も最低限じゃしな。
「その性格でどうしてそんな服が好みなのかが謎ですよね」
「別に構いやせんじゃろ」
 わしの普段着は大体フリルやリボンがふんだんに設えられた物。それは帽子やブーツにも同じじゃ。
 基本的に生まれのせいかあまり肌を露出する衣装は好まないのが理由の一つ。あとはなんとなしに着慣れておるだけじゃ。
「新しい洋服でも見てきたら良いじゃないですか」
「サンドラ。鏡を見て言えばどうじゃ?」
 着る者を選べば間違いなく見栄えする司書長に言葉を返すと「似合いませんから。絶対に笑われます。特に館長から」とざっぱり切り捨てた。
「老の軽口はさて置いて、似合わぬ事はなかろうて。
 ラボの連中がいろいろと噂しておろうに」
「自分の事を棚に上げないで下さい。……急がなくて良いのですか?」
「そうじゃな」
 わしは本を閉じて封印の呪を唱えると本が静かになった事を確認して席を立つ。
「……『本になった者の本』ですか。とんでもない物を読んでますね。二階層の物じゃないですか」
 確かに真っ当なシロモノではないのぅ。最後まで読んだ者を本に変える魔道書じゃし。
「要は体の中に蓄積、構成される魔術回路を逐一書き換えて無害な物に変えればよい。
 対処法さえ分かっていれば子供でも安易に読めるよ」
「……まぁ、子供の貴女が言うと反論し辛いですけどね。
 魔術論からすれば体内の魔術を認識、置換する事は魔術師にはそれほど難易度の高い行為ではないでしょうが……
 安易にできるなら百人以上の魔術師がその本のページになりはしませんよ?」
「昔から魔術の並行処理は得意での」
「子供でもできる簡単な事も、それを同時に3つやるのは意味が違います。
 ……貴女には今更の議論ですね。片付けはしておきますからどうぞ?」
「ふむ。悪いの」
 わしは呼吸を一つ整えて戸を開く。
 さて気を抜かぬように抜けんとな。

 ◆◇◆◇◆◇◆◇

 ティアロットさんは「魔法使い」です。
 可愛らしいとか不思議だとか形容詞がいくら付いても主となる言葉は変わりません。
 これは彼女の行動、考え方の全てが彼女の称するところの「魔術理論」に基づいているからでしょう。
 彼女と出合って約二年。私は彼女が感情で動く所をあまり見た覚えがありません。
 私を止めたあの時の事も「敵味方の区別が付いておったし、逡巡しておるとも推測できた。ならば衝撃を与えて思考のベクトルを決めてやればよいじゃろ?」と何でもない様に話していました。
 一番良く見るのは思案顔。それから呆れ顔でしょうか。機械よりも機械的と揶揄された事もありましたが「それで最善が選べるのであれば是非も無い」とさらり返答してましたっけ。
「何用じゃ、アリス?」
 いつの間にか物思いに耽っていた私は声をかけられてびくりと体を震わせました。ふと画面の端を見ると長針が半回転しています。
「あ、いえ。良かったらお買い物に行かないかなって……」
「サンドラの言う通りじゃな」
 私の言葉にはこの苦笑が多い気がします。まるで手のかかる子供を見るようなそんな笑み。
 私の方が年上のはずなんですけど……
「ご迷惑でしたか?」
「……いや、構わんよ。さりとてわしには特に目的もないしの。ぬしに任せよう」
「はい」
 私の浮かべた笑みに苦笑が濃くなるのを気づかないふりして、大図書館を出る。
 新暦1年6の月ももう終わりで次第に暑さが厳しくなってくる。蝉の声の無い町をニュートラルロードへ向けて歩く。サンロードリバーの傍にティアさんが気に入りそうなお店を見つけたので、今日はそこに向かうつもりなのですが。
 それにしてもと幅広の帽子の影から太陽を見上げるティアさんを見る。
 私もあまり人のことは言えませんけど、それでもこの二年で少しは成長しています。ですが、ティアさんは二年前とほとんど容姿が変わっていないと改めて感じます。
「ティアさん。ちゃんとお食事していますか?」
「……しておるよ?」
 何食わぬ顔ですが若干含まれた「感じ」を聞き逃しません。
「またサプリメントとかじゃないですよね?」
 ついと視線を逸らす。ティアさんって嘘を吐くのは堂々とするのに、誤魔化す事は苦手なんですよね。どういう理屈かさっぱりですけど。
「栄養という面では問題ないじゃろ。前よりもよっぽどマシじゃよ?」
「栄養学も生理学も知識があるだけで実践しないならば意味がないですよ」
 ティアさんの出身世界はヴェールゴンドのような剣と魔法の世界で、魔法が発達していた分、科学方面に劣る世界だそうです。
 その頃は日にビスケット1、2枚とかそんな生活をしていたらしく……そんなに生活が困窮していたのかと尋ねれば「それ以上必要でなかった」と答えられて呆れたものです。
 サプリメントなんてシロモノを知ったら知ったでこの有様。せっかくうらやましいくらいに可愛らしいのにお肌とか心配になります。
 いつもふわふわのドレスを着て、ボリュームのある髪を従えているから分かりにくいけど、ティアさんの体はただ細いだけじゃありません。それは彼女が手にしている杖を見ても分かることですが。
 まるで死神が扱うような処刑鎌を思わせるそれは見た目どおりの重さを有しています。それを振るえるのだから基礎体力は私よりもあるのかもしれません。
「野菜や果物は時間を見らんと入手しづらいし、どうも、のぅ?」
 生鮮品は確かに時間を見て買い物をしなければ買いそびれてしまいます。食料自給率がほぼ0%のクロスロードでは一番の難点とも言える事柄でしょう。
「ですけど、飲食店とかあるじゃないですか」
「乾パンと水があれば事足りるしのぅ」
「……さっきと言ってる事違いませんか?
 ティアさんって一応人間種ですよね?」
 成長しない事も相俟って思わずこう問いかけたのは一度や二度ではありません。
 どちらかと言うと仙人ですよね、この子。
「果物なら食べるのでしょ?」
「別に好き嫌いは無いつもりじゃよ?」
「でも、前に行ったお店で気持ち悪そうにしてませんでした?」
 ふむ?と首を傾げ、それから
「ああ、あの菓子屋か」とぽんと手を打つ。
「甘い物は食べ慣れんのじゃよ。甘味と言えば果物くらいじゃからなぁ」
 まるで江戸時代の人みたいな事を言う。でも砂糖が貴重品ならそんな物なのかも。
「少し立ち寄った世界で色々試されたんじゃがなぁ。どうも味が派手な物はの」
 お年寄りのような事を言いながら……「試された?」と気になった言葉を復唱する。
「面白半分に食べさせられたと言うか……酷い目に遭ったのぉ。あれは」
 問い返すと彼女は少しだけ目を細め、「酷い目に合った」と言いながらも笑う。
「特にワサビとか言うのとカラシとか言うのは酷かったの」
「……え?」
 それって同じ名前の別物じゃないですよね?
「それって緑と黄色の……地球世界のものですよね?」
「うむ。しばらく、といっても数ヶ月程度じゃがな。そういう世界に居った事がある。
 ここへの扉もその世界からじゃ」
 異世界に行くのに必ずしもこの世界を通る必要は無いらしいです。この世界にその通路が多いだけであって他の世界間でも行き来する方法はあるのだそうで。
「ティアさんって地球世界の事……日本の事、知ってたんですね」
「ぬしの知るものと同じかは知らんがの」
 地球世界の中には極端にその歴史を異なる物も確かにあります。
 《ガイアス》のようにすでに世界が統一政府の元で管理されていたり、第二次世界大戦で日本が勝利していたり。
 極端な物になると宇宙人の襲撃があったり謎のウィルスで人類がほぼ死滅してたりなんて事も聞きます。
 ……私の世界もスタンダートかどうかはちょっと自信がなくなってきてますけどね。
「じゃあ日本に?」
「うむ。ぬしは欧米とかいう地域の人間の特徴に近いが?」
 確かにこの金髪碧眼の白人という容姿はそうなのですが。
「一応日本に在住していました」
「ほぅ」
 彼女は鋭いですから「一応」という漏れ出た言葉に気付いたのでしょう。
 地球世界を知っているのであれば私の力が「異能」と呼ばれる類の物と知っている事でしょうし。
「ティアさん和食好きそうですよね」
「うむ。ああ言うのは良いの」
 若干の笑みを浮かべるのを見て私は目を細めます。こうしてみると彼女も人なのだなぁと思えるのですが。
「じゃあお昼はそういうお店にしましょう。
 まずはお洋服です」
 私はティアさんの手を取り、ちょうどやってきた路面電車へと足を進めました。
間奏
(2010/3/2)
「よっと」
 猫のしなやかさを帯びて、少女が幼い姿態を闇に躍らせる。
 少女に追随するのは金の帯。二つに括られた髪が速度に靡き、月明かりを散らす。
 そして後に残るのは赤の霧。喉を引き裂かれた男は絶叫すら許されず喉を掻き毟って絶命する。
「た、助けてくれっ」
「だーめ☆」
 その光景を目の当たりにした粗末な衣服の青年が尻を磨るように後ずさる。腰が抜けてしまい立つ事さえできないようだ。
「君はここで死ぬ事けってーなの。
 だいじょーぶ、他の人を贔屓なんてしてないから」
「ひぃっ!」
 ナイフを何のためらいも無く眼球に叩き込み、脳まで破壊して少女は振り返る。強く握れば折れそうな細腕だがそれを問題としない壊し方が淀みなく繰り返されていく。
 激しいばかりの『動』から一転『静』へ。緩やかに流れる風に、降り注ぐ月明かりに、悠然と立つその姿は幻想的であった。画人が見れば絵に残さずには居られぬほどの優美。それを台無しにするように少女は急にぴょこりと肩を跳ねさせ、きょろきょろと周囲を見渡す。
「やーん♪」
 気が抜けすぎた黄色い声。そして不意に彼女に宿ったのは野生動物の敏捷性だ。ほんの僅かな音を残した次の瞬間、彼女は一人の男性に体当たりする勢いで抱きつく。相手は少女が小柄であることに加え鍛えられた足腰を持つため、揺るぎもせずそれを受け止めた。
「汚れるぞ」
「リヒトに抱きつくための障害にはならないもんっ」
 男は地味としか言いようの無いズボンとシャツの上下に不釣合いな長剣を携えていた。
 シャツには黒く変色し始めた赤が染み付いている。彼の背後にはその持ち主が横たわっているはずだ。
「そーれーにー。髪についちゃったからリヒトに洗って貰いたいし〜」
 血臭漂う路地にまるで似合わぬ猫撫で声に濃淡で構成されたような静かな騎士は困ったような笑みを漏らす。
「他は?」
「二人に任せちゃえばいいよ。どっさんは乱戦専用だし、ティアっちは殲滅戦得意だもん」
「まだ遣り合ってるのか?」
 数十メートル先の路地で青白い光が踊るのを見る。それは命を刈り取った光だ。
「ま、所詮は戦闘能力の無い相手だもん。万が一でもやられることはないってば」
 足音。少女はむぅと唇を尖らせ腰に巻いたベルトから太い針を抜く。
「あたしたちがやんなきゃいけないのは、この通りに逃げてきたのを」
 ひゅんと右手が空気を切る。
「皆殺しにするだけだから。のんびりしてればいいんだよ」
 ぎぃと引きつるような悲鳴。右肩と左足を穿たれた女が派手に路地を転がる。
「ぎ……ぃい! こ、この、悪魔めぎょ」
 「煩い」と本当に煩わしそうに呟いてもう一本の針を投擲。開いた口に飛び込み、喉をを穿つ。
 さらに抜こうともがくが、手や指はそこまで届かない。首に集まる神経が暴れる体で踊る針にいじくられ、地獄の苦しみが女の中を駆け巡っていた。
 そのダンスもすぐに臨界を超えて白目を剥き、失禁して果てた。
「ティアっち、掃討が甘いよっ」
『最終的に打ち漏らさねばよいのじゃろ?』
 インカムに不満げに言葉を漏らすと落ち着き払った少女の声が応じる。
「……わざとやってるでしょ?」
『土門はようやっておるよ?』
 上空で可憐な死神が振り下ろす。少女の周囲に千とある光の鏃が一つ舞い、子供の胸を貫く。またひゅんと振りぬくと、頭を打ちぬかれて路地を転がる。下あごだけの残る顔面からどろりと血が流れ出た。命を刈るように、処刑鎌にも似た杖を踊るように振り下ろしていく。
 その直下では一人の鬼神が刃に命を吸わせていた。
 纏う衣服は幕末志士を思い起こさせる。手にした刀は未だ曇りなく、己の手と刀が作る空間に踏み入る者へ等しく死を与えている。
 攻めても死、逃げても死の環境で唯一守りが薄い場所の先に二人が待ち構えて居る。
 効率よく大人数を処理するために恐怖を煽り、活路を匂わせて少しずつ逃がし、その全てを潰していく。
 ティアロットの打ち下ろす魔力の弾丸は数発に1つ致死に至らない。痛みを訴え悶える声に気を取られた者が容赦なく吹き飛ばされていく。
「どっさんはまじめだけが取り柄だもん。二人で処理できるならやっちゃってよ」
『できるだけやってみよう』
 抑揚の無い応答。「絶対その気ないなっ!」と怒鳴っても反応は無い。というか必死の形相で逃げてくる数が増えた。
「後で絶対いじめるっ!」
「それより、来るぞ」
 窮鼠猫を噛む。追い詰められた人間は何をするか分からない。死地に立たされた人間のポテンシャルは常時を軽く越える。
 だが────悲しいかな、窮鼠の必死も圧倒する力がそこにある。
 青年が剣の重さを全く感じさせぬ動きで肉薄。破れかぶれに振るわれたナイフを見切って胴を薙ぐ。対金属重鎧を前提とされた騎士剣には刃が無い。速度だけで腹を抉られ、背骨を砕かれた男は背後に続く子供に激突して転がる。ゴツと頭を壁に打ち付ける音が静寂に響いた。
 止まらない。逃げ道の無い路地で静かな騎士が綺麗な剣筋で一つ一つ命を打ち砕いていく。再び静寂を取り戻した路地で、青年の視線はぴくりとも動かない子供に注がれる。己の成した事に迷いは無くとも胸に去来する思いは消せない。
「……ティアっち。おねがい」
『……良かろ』
 明るさをかき消して囁く言葉。ヒミカという少女にとって万人の怨嗟の叫びよりも一人の騎士が負う悲しみの方が胸えぐられるのだ。
 魔弾が夜闇を引き裂き男を、女を、子供を砕いていく。
 頭を砕かれ、体を砕かれ、そして心を砕かれていく。
 心を砕かれ、逃げる方向の自由も失った者が刃風と化す侍に巻き込まれ命を刈られていく。
 余りにも一方的な虐殺。
 今宵、クロスロードの片隅で死は量産されていく。
ヤミイロ ノ
(2010/6/2)
 雨は嫌いです。
 私達の仕事は緊急対応ですからどうしても移動速度を求められます。飛竜はそれに適した乗り物であることは間違いありませんが雨の際にはその速度が疎ましく感じるものです。
 翼の速度が生み出す世界。雨合羽なんてあっさりと仕事を放棄し、一回飛ぶだけで体中ずぶぬれになってしまいます。特にティアさんはそのボリュームのある髪が盛大に濡れて重くなり、歩くのも辛そうになります。
 その時だけ髪を編む彼女が可愛いらしいのですが、まぁそれはさておき。
 このクロスロードの気候は日本に大変似通っています。
 六の月───それはつまり梅雨の季節で。
 今日も空は灰色に染め上げられています。


「はぁ」
 少女は傘を片手にどんより空を見上げた。早朝からの雨は止む気配がなく、地面を暗い色に染め続けている。
 いつもは多いに賑わうヘブンズゲート前広場も今日はやや閑散としている。雨の日に外出を控えるのはどこの世界も変わらないらしい。
 路面電車の駅には順番待ちの列。いっそそのあたりの飲食店に入って時間つぶしがてら夕食でもとろうかと考えていると、不意に視界の隅に動く物があった。
 人間であれば5、6歳程度の女の子だ。路地の影から周囲を伺う姿は雨に濡れぼそり、警戒露な瞳には活力が見られない。唇は紫色で顔色も悪いのは人型の種族では体調が悪い……というか単純に雨に濡れ体が冷えているのだと察する。
 アリスはその姿にまず疑問を覚える。これが他の世界であれば浮浪者と結論付けるところだが、ここはクロスロードだ。来訪者には例外なく住居が与えられている。それがどうしてこんな所まで来て濡れ鼠になっているのだろうか?
 誰かを待つのならどこかの屋根の下に逃げ込めばいい。身なりはお世辞にも良いとは言えないが探索者が行き来するこの付近の店で多少の汚れくらい邪険にする理由にはならない。
 ざあざあと降りしきる雨の音を聞きながらアリスはぼんやりと少女を見つめる。
 一度気にしてしまうと中々離れられない性格をしている彼女は雨空を見上げ、それから体の中に囁きかける。不意に、ぴょこんと足元に子ウサギが現れてきょろきょろと周囲を見回し始める。コケティッシュな動きに彼女は目を細めた。
「お願いしますね?」
 アリスを見上げたウサギが鼻をひくひくと動かして軽快に走り始める。よくよく観察して見ればウサギの体は雨を通り抜けさせているのがわかるだろう。幻影────光で構成されたそれは彼女の眼として路地へと近づいていく。
 充分に近づいたところで片目にウサギの視界を写す。
 年のころは多く見て10歳程度。全体的に薄汚れている。酷く転んだのか左の袖が擦過で破れ、赤黒い物を滲ませているのも見えた。酷く憔悴しており、手負いの獣という雰囲気だ。
 何か事件にでも巻き込まれたのだろうかと心配になった所でふらりと少女の体が傾ぎ、そのままどさりと倒れてしまう。
「え? ええ?!」
 不意に素っ頓狂な声を挙げたアリスを周囲が不思議そうに見るが、それどころでない彼女は慌てて少女の方へと駆け走る。
 そうして抱き上げた体は力の無い彼女でも細く軽いと感じらるほどだ。衰弱は激しく呼吸は熱に浮かされて荒く、だが弱弱しい。
「どうしてこんな状態で外になんか……」
 と───そこでアリスは気付く。
「……PBは?」
 握れば折れそうな手にPBの姿は無い。他のアクセサリーに変えている様子も無い。もしかして腕輪以外の形にした後で落としてしまったのだろうか? そんな想像をかき消すように、路地の奥でざっと水を蹴る音が響く。
「……何も言わず聞かず、その少女を置いていけ」
「……」
 雨合羽に身を包んでは居るが、そのがっしりとした体付きは武人のそれと分かる。自然体に見えながらもミリ単位で間合いを調整した男はずんと腹に響く声で続ける。
「さもなくば君ごと斬らねばならん」
「お断りします」
 迷い無い返答に男の眉がぴくりと跳ねる。
「中々気が強い。だがその子は災厄の種だ。あるいは君もそうなりかねない」
「……回りくどい言い方をされても納得なんてできませんよ?」
 言いながら光を屈折させ、自分の虚像をその場に残す。
「動くなと言っているだろうに」
「っ────!」
 切っ先が正確に、見えないはずのアリスへ向けられていた。
「幻術の腕前には驚いたが気配を消せぬようではな」
「ちょい、どっさん、何してるのさ」
 背後からの声。退路をふさがれたと嫌な汗が流れる。
「って、ああ。なんか他の人居るし」
「面目ない」
「もー、どうすんのさ。下手したら被害者が増えるよ?」
 武人とは真逆の明るい声。
「被害者ってどういう意味ですか?」
「……ま、検査受けてもらわなきゃなんないし言っちゃうけど。
 その子は感染者で侵入者なの」
 感染者、はさて置き『侵入者』の意味するところが分からず眉根を寄せる。
「とある世界のバカがこのクロスロードを支配しようとして感染型の呪いを仕込んだ難民を大量に放り込んできたの。
 あたし達はその駆除係。理解したならさっさとその子を離して、あんたは感染してないか検査を受ける」
 素っ気無く言われて腕の中の少女を見る。扉の園からクロスロードに入るには入市管理場を通るように思われているが、実際その垣根は植物の蔦で出来た壁があるだけだ。サンロードリバーに面するところを除けば入市管理場を通らない事もそう難しい事ではない。
「呪いを解くことは出来ないんですか……?」
「出来るけどするより殺した方が早いもん」
「ヒミカ……っ!」
 どっさんと呼ばれた武人が窘めるように鋭い言葉を放つ。
「事実だよ。感染致死型の呪いなんていちいち解除してたら神官の方が先に感染しちゃうよ」
「貴方達は何者ですか。管理組合の人ですか……?」
「質問はそこまで。こっちからの質問に答えてもらえるかな?
 その子を離して検査を受けるか、その子と一緒に死ぬか。あと3秒」
 2、1と容赦なくカウントを進め、仕方ないと武人が腰を沈める。
「ゼロ」
 迷い無い刺突。細い二人の体など難なく貫く突撃。
「《鏡の国》っ!」
「っ!?」
 刃がその身に届く刹那。武人の前に現れた楕円の姿見に切っ先が飲み込まれ────
「ちぃっ!?」
 ぎちぎちと筋肉が鳴り、草鞋の紐が負荷に耐え切れずにはじける。そして切っ先は少女を庇うようにして背を見せたアリスに刺さるが────
 代わりに鏡から飛び出した切っ先が武人の右肩浅く抉る。武人の傷はアリスが受けたものとほぼ同等。咄嗟に勢いを殺したがため共に傷は浅い。
「ずいぶんとえげつない技を使うっ!」
 武人の視線に気付いたヒミカがえ?と脇を見ると雨粒が妙な跳ね方をするのを見た。
「姿消しの技だ。追えっ!」
「光使いなのっ!? もう、先に言ってよっ!」
「言う暇なんかないだろうがっ!」
 そんな声を背に大通りに戻ろうとして『感染致死型の呪い』という言葉を思い出す。彼らの言葉を嘘と断じるのは容易いが、先ほどの違和感───PBを持っていない理由に説明が付いてしまった。
 背中がずくりと痛むがそれも長くない。ぞわりと蠢く感触を無視してとにかく足に力を込める。
 すぐ先はヘブンズゲート。助けを呼ぶのは容易い。でも────
「分別は付くみたいね。そこから飛び出せばあんたは殺人鬼だよ」
「……っ」
 横道は無い。取って返すにしてもあの武人を突破できる自身がない。
「なにをやっとるか」
 呆れを多分に含む三人目の声。
「悪いのはどっさんだもん……」
 その聞き慣れた声音に安堵と、それ以上の疑問が浮かぶ。
「ティアさん……?」
 空を舞う少女が振り返りアリスと視線を合わせる。
「知り合い?」
「まぁのぅ。説明は?」
 一旦アリスから視線を外したティアはヒミカにいつもの無面目で問う。
「したよ。一応そこから飛び出すのに躊躇いは覚えてくれてるみたいだけどね」
「なれば話は早い。アリスこやつらの語る言葉は事実じゃ」
 視線を彷徨わせる。だからとまだ生きてる子を殺すだなんて───
「この子を助ける事は出来ないんですか……!」
 その懇願にティアはしばしの沈黙。それから諦めたように「……できる」と呟く。
「ちょ、ティアっ!?」
「こうなればその方が早いじゃろ。このままアリスにまで感染した挙句逃げられたら面倒じゃ」
 ヒミカはむうと唸り「……そりゃそうだけどさぁ」と武人へ批難の視線。
「……そもそも俺の失態だ。ティア殿の意見に異論は無い」
もー、と不快感全開でため息。それから肩を一つ竦め
「OKOK。事後処理はティアっち全部やってよ?」
 と、背を向ける。
「うむ」
 頷いてふわりと地面に降りる。彼女の周りには飛行の魔術に伴う風の膜があるらしく雨に濡れている様子は無い。
「ティアさん……」
「まったく、妙なところに出くわしおって」
 呆れ半分という感じだが、それはアリスだって同じ感想だ。だが文句を言わせる前に彼女は遠くを見上げた。
「ともかく急ごう。ぬしに感染する前の方が好ましい」
 そう言って、続けて唱えたのは抗魔の術だ。多少でもという事だろう。
「わしはルティア殿に話をつける。それを連れては電車を使えぬからなるべくこちらに来てもらいたい。
 土門、すまんが」
「……だったら13区画の集合場所だね」
 知ーらないとばかりに顔を背けていたヒミカが言葉を割り込ませる。「そうじゃな、そこまで二人を連れてきてくれい」と苦笑を零す。
「わかった。……事情は?」
「話さんと納得せんやつじゃ」
 土門と言う名の武人はヒミカの背に問いかけ、しかし反応が無いと見て頷いた。
「では後ほどの」
 フリルとリボンにまみれた服を伴って少女の体が灰色の空の中に消えていく。
「行こう」
 少女を渡せと差し出す手にはどこか優しさがある。先ほどまで纏っていた空気が僅かに晴れているのを察してアリスは素直に少女を託す。彼もまた自分の行いを最善だと思って行動していなかったのだろうと何となく思う。
 それからつっけんどんな態度を通すツーテールの少女が何食わぬ顔をして着いてくるのを振り返らずに見て。
 アリスは灰色の空を見上げた。

 ◆◇◆◇◆◇◆◇

「クロスロードは紛う事無き無法地帯だ」
 降り止もうとしない雨の中、おもむろに土門は口を開く。紙で出来ているらしい不思議な傘は少女が濡れないように────自分の背を盛大に雨に曝して掲げられている。
「仮にここで俺がこの子を殺しても、それは俺とこの子の問題であり他者の干渉、公的な罪に問われる事はない」
 そもそもこの都市に一般的な社会制度の中にある『公』は存在していない。
「ただ君がその事に対し賞金申請しても、管理組合の追加額はゼロに近いだろう」
 クロスロードの賞金システムにおいて賞金額とは、申請者の出す額と管理組合が追加する額の合計金額となっている。管理組合の上乗せ額の基準はクロスロードの管理維持に対する影響の度合いにより査定される。
 彼の言葉は間違っていない。個人に対する殺人はクロスロードにたいした影響を及ぼさないし、少女は呪いを負っている。逆にこの少女の討伐に賞金を掛けたほうが圧倒的に上乗せ額が上だろう。
「話を戻す。無法とは言え公的機関が無いとは言え、水際で治安維持に努める組織はどうしても必要だ。
 今のクロスロードのシステムではどうしても対処療法でしかない」
 それはこの少女の抱く呪いの事も指していた。十全信じるのであれば彼女を放っておくだけでクロスロードは大混乱に陥る。そしてその後で賞金を掛けて討伐しても後の祭りだ。
「……律法の翼、ですか?」
 クロスロードに法と秩序を。その理念に基づいて活動する組織の名をアリスは口にする。彼女でなくともそう連想するだろう。だが土門は小さく首を横に振る。
「厳密に言えば私兵だ」
「厳密って言いながら回りくどいよね」
 ヒミカが茶化すように口を挟んできた。いい加減黙ってるのも飽きたのだろう。
「あたし達の雇い主は個人。管理組合幹部の私兵で、管理組合が得た情報を元に動く集団」
 『管理すれど統治せず』を掲げる管理組合のスタンスに反する行為だと率直に思う。
 そもそも管理組合において『幹部』と呼ばれる人におおよそ心当たりが無かった。人々の認識の上では行政的な立場でありながらその統括者についての情報は皆無というのが管理組合だ。その理由としてどこか1つの世界を優遇しないためという建前を掲げている。公開すれば当然目端の利く者は擦り寄ろうとするし、例えそれを断ったとしても擦り寄ろうとした事実等が火種になる。
「良くも悪くもクロスロードという都市は成長し、十万人規模となりなお成長を続けている。様々な世界の様々な技術を内包する町。あらゆる世界へ続く扉を持つ世界。それが整備された上で存在しているのだから知って無視できる物ではない」
「だから今回みたいに乗っ取ろうなんて考えるヤツが出てくるの。なにしろ公式に治安維持組織も無ければ思想統制もしてないんだもん。法整備や議会設置を求める組織は大抵どっかの世界の工作員だし、律法の翼の過激派連中の何人かもそういう目的で動いてる」
 土門が抱えている幼い少女を見る。疲労以上に元々良い生活をしていなかったのだろう。故郷の世界から兵器として送り込まれた哀れな犠牲者がそこに居る。
「あたしらは表向き……なんて看板は掲げてないけど、言うなら個人の勝手で侵略者と戦う正義のヒーローって感じかな」
 皮肉たっぷりの響きに土門が一瞬咎める様に振り返り、だが何も言わぬまま歩を進める。
「で、あんたはどうするの?」
「……どうするって……」
「本当ならあたしらはあんたを殺してる」
 躊躇いのない断言にアリスは息を呑む。そんな事はお構いなしとヒミカは言葉を続ける。
「ティアっちの知り合いだから生かしてるだけ。
 もっとも、ティアっちが誰も彼も助けて何ていうお優しい正確だったらガン無視しただろうけどね」
 そこまで言って苦笑を混ぜる。
「あの子はあたし達の立場をちゃんと理解してるし、あたし以上に必要な時は冷酷になれると知ってる。
 だからその意図も大体分かる。あんたは分かってないの?」
 それは確かにアリスの知るティアロットという少女の中身だ。冷静沈着で合理的。たまに情愛と言う言葉を本当に知らないのではないかと疑う事もある女の子。
「私にも協力しろとあの子は言うと思います」
「だろーね。あんたが表でティアっちとコンビ組んでる事も思い出した。
 でも、今の今まで。こんな事がなければティアっちはあんたをこっちに誘おうとはしなかった。その理由がこの状況だよね?」
 弱弱しく苦しげな息遣いが少女から漏れ聞こえる。
「あんた、今からその子殺せる?」
「ヒミカ……っ!」
 咎める声を無視してヒミカはアリスを見つめる。
「あたしらはこういう事をする集団なんだよ。例えその個人に罪は無くてもあたしらはクロスロードを維持するために手を汚す。
 あんたは考えた? その子にとってあたしらは恩人なんかじゃない。親兄弟、仲間を皆殺しにした悪鬼でしかないってことを」
「親兄弟……?」
「この十万都市を壊滅させようって言うのに一人だけ送り込むわけ無いじゃん。
 その子は本当に運の良い生き残りだよ。あたしらの包囲網を潜り抜けて、アンタに遭遇し、そして一人になったから助けてもらえるようになった」
「……もし送り込まれて来たのがこの子だけであれば、俺は迷わず捕獲し解呪する方法を選んだだろう」
 武人の口から漏れる悔恨を滲ませる言葉にヒミカは少しだけ口を尖らせる。
「百人単位の高度な呪いを受けた者を全て解呪する方法は俺達は持ち合わせていない。
 では何人助ければいい? そしてそれは救いか?」
 問いかけに答えは出てこない。
「あたしらの仕事はジレンマを抱えちゃだめなの。1人を助けたらどうして2人助けなかったのか。3人、4人ってなっちゃう。
 ALL or Nothing シンプルにやらないと悔恨と火種だけを抱え込むだけになっちゃうの」
 ててと少しだけ歩調を速めてヒミカはアリスの前に立つ。
「知ってる? 殺した者に生き残った者が望む残酷な言葉って」
 それは────
 アリスはすぐに思い当たった。彼女もまたその言葉を胸に抱いた事がある。

「謝罪の言葉も賠償も要りません。ただ、あの人を返してください」

 それは余りにも深い切望。戻らぬと知ってなおその言葉は口に上る。
「もっかい聞くよ。
 あんたはあたしらの仲間になれる?」
 問いかけて、ヒミカは答えを聞く前に土門の横に並んだ。
 自分がその問いを返す相手は誰か。理解しているアリスは無言のまま二人の後に続いた。
裏側の世界
(2010/09/17)
 無法都市クロスロード。
 罪と罰の定義されていない混沌の都市と口さがない者は言う。
 道徳だけで都市は成立しないと、識者は当然のように言う。

 それでもこの街は続いている。僅か二年ばかりしか経過していないとは言え、種族を超えた人々がこの都市で日々を過ごしている。
 安寧にとは言うまい。平穏にとも言うまい。だが彼らはこの地でこの地の生活を確かに得ている。
 ならばそれを守るのも悪くは無い。
 例えそれが人に後ろ指さされる行為であろうとも、俺は信念を持って貫くのみだ。

 ◆◇◆◇◆◇◆◇

 合流場所にはすでに人の姿があった。
 一人はティアロット。もう一人は背に翼を負った女性だ。慈母を思わせる穏やかな表情に刻まれた左頬の文様がどうしても目立つ。
「その子ですか?」
 事情は聞いているのだろう。痛ましいと思う気持ちが言葉に滲み、ぐったりとする少女にそっと触れる。
 やがて何かを堪えるように強く瞳を閉じると立ち上がり、「彼女をここへ」と左手に持つ杖でトンと床を叩いた。
 そこにぽっと光が点り、子供が寝て優に収まる円が生まれる。放たれるのは神気と呼ばれる物、聖別した場所を作り上げたのだろう。
「難しいか」
「……この子一人だけでもと思いたいです」
 ティアロットの言葉は自身の見立てを確認する物。少女を寝かせた円の中に複雑な文様が白の光で描かれ、すぐさまドーム状に包み込んだ。
「おぞましいですね」
 ぽつりと翼の女性は悲嘆を漏らす。
「まるで憎悪の塊です」
 染め上げるような白に影が浮かぶ。一つ、二つ……次の瞬間、地の底から這い出したような闇が純白のドームを禍々しく染めて叩き、暴れ回る。
「狂ってるにも程があるね。これ」
 平気な顔をして殺戮を繰り広げていたヒミカが顔を顰めるのであればその醜悪さもおして知れよう。
 闇は暴れる先を失って再び苗床としていた少女に襲い掛かるが、何かに弾かれたように触れることは叶わず怒り狂ったように結界を激しく叩いた。
「こんな物があの全員に仕込まれていたと言うのか」
 侍が押し殺せない感情を言葉の震えとして呟く。
「……ティアロットさん」
 翼の女性が緊張を滲ませた声を放つ。ゆっくりと頷いてティアロットは一同を見た。
「皆、外に出よ。少々荒い事をする」
「ルティアでも無理なの?」
 真っ先に状況を察したヒミカの問いに少女は首を横に振る。
「わからん。わしも術式の補助はするが」
 そのやり取りにアリスはいよいよ表情を硬くする。ティアが「わからない」と言うならば成功率は半ばかそれよりも悪いのだろう。
「ティアさん、危険な事は……!」
「アリスや。ぬしが連れて来た子じゃろ?」
 確かにそうだ。でもそれはティアロットを危険に曝してまで────
「土門、そやつを引っ張って部屋から出るんじゃ」
「承知した」
 ぐいと掴まれてアリスは思わず逆らおうとするが、ティアロットの静謐な視線に息を呑み、渋々と従う。
「ルティア殿が居る。失敗しても被害の拡大はさせんよ」
 低い銅鑼のような声が視線を固定するアリスへと向けられる。その厳つい顔には困惑も動揺もそして不安も無い。それを見たアリスは渋々と頷く。
 次の瞬間、ゴッと風でない何かが大気を奮わせ、衝撃のように背後へと突き抜けた。
「うあ、ちょっと洒落になってなくない?
 ラース級の神災だよこれ。初めて見たけど……」
 天罰、神の怒り。そう呼ばれる大規模な聖魔属性の厄災をクロスロードでは『ラース』と言う名で括っている。
 ちなみにA(アトミック)B(バイオ)C(ケミカル)M(マジック)W(ラース)で『ABC2W』(Mの逆さま)が大規模兵器、あるいは災害の通称となっている。
 直接その被害を受けていないはずなのに背筋が凍り、喉がどうしようもない渇きを強要する。ラース兵器の特徴の一つとしてそれを目撃した者に強い精神圧迫を加えるという物がある。つまり神の怒りに触れたという事実は広く喧伝されなければならない。それは強い衝撃と共に畏敬となって世界に広まるのである。
「あ、あのっ! 二人は……!」
「ティアっちがヤバイ事すると思う?」
 ヒミカが余裕ぶって笑みを作り、それからふと真顔に戻って少し沈黙。
「やるよね、あの子」
 即座に台無しにする。
「ヒミカ殿……」
 土門が沈痛な面持ちで呟き、傍らの騎士が無言で彼女の頭を上から押さえた。
「だーって、さくっと紙一重狙うじゃん。あの子」
 口を尖らせての反論も少々弱弱しい。彼女は良くも悪くも正直なのだ。
「でも死ぬような事はしないのは間違いないっしょ」
 彼女は自殺願望者ではない。生への執着は感じられないが、何も為せなくなることへの恐怖を抱いている事をアリスは感じていた。
 だから死ぬような事はしない。彼女には何か求める物がある。
 神も魔も居るはずのこの街でアリスはただ無事を祈った。

 ◆◇◆◇◆◇◆◇

「術式の相反はないかえ?」
「問題ありません。ティアロットさんの信仰は特別ですから上手く相互作用しているようです」
 中央の圧倒的な災厄。いっそ「C」の定義をカースやカラミティに変えたほうが良いのではないかと言うほどの負の思念が二人の展開する結界に阻まれ怨嗟の声を挙げ続ける。この声一つをとっても魔術耐性が無ければショック死を引き起こしかねない。
「それを使うか」
 少女の視線がルティアの持つ杖に注がれる。
「はい。流石に長引かせると土地が汚染される可能性もあります」
「ケイオスタウンの奥地でやればよかったかの」
 無論そこまで運ぶ余裕は無かった。結果論ではあるが、途中でこの中身が暴れだしていた可能性は充分にある。
「結界はお任せします。
 ……ティアロットさんで良かったです。貴方は私にとても似ている」
 ルティアは僅かに微笑んで顔つきを真剣な物にする。
「結界を解きます。10秒耐えてください」
 ティアロットが頷いた瞬間、中央で呪いを抑えていた結界が消失する。黒の思念はここぞと暴れ、外枠にティアロットが展開していた結界を打ち破ろうと体当たりを仕掛けてくる。結界の強度に圧倒的な差があるのだろう。黒の思念が結界に当たるたびに殺しきれない衝撃が家屋を揺らす。
「ぐ……」
 噛み締めた歯の隙間からうめきが漏れる。放てばこの辺り数百メートルの人が死に絶えるような憎悪の塊だ。普通なら一瞬でその闇に心も体も侵食され、自らも呪いに成り果てる。

 カツと、杖が床を叩く。

 黒の思念の一部が動きを止める。まるで何かに魅入るように行動を止めたそれらはまた不意に結界の一点───その先のルティアを目指して直進する。
「────」
 音にこそ意味のある真言。この世界が翻訳できない───しない言葉がルティアの唇から放たれた。

 オォオォオォォォオォオォオォオォ─────

 脳を蝕むような『声』をルティアは正面から受け止めた。

「貴方達は救われても良いのです」

 見る者を怯え、狂わせる壊れた感情。その闇へと彼女は偽り無い言葉を放つ。
 ────そして闇が喰われ始めた。

 ◆◇◆◇◆◇◆◇

「振動、収まったねぇ」
 座り込んでいたヒミカが勢いをつけて起き上がると同時に扉が開く。
「終わりました」
 やや憔悴したルティアがそれでも笑みを浮かべて扉の向こうへと道を開ける。
「あの子もティアさんも疲れきってしまったようです。休ませて上げてください」
 見れば呪いを背負っていた少女が静かに寝息を漏らしている傍らにティアロットが寝かされている。
「大丈夫なんですよね?」
 余波だけで家を揺らすほどの騒ぎに気が気でなかったアリスが詰め寄るように問う。
「ええ。問題ありません。呪いの侵食も気にしなくて良いかと」
 それを聞くとアリスは慌てるようにティアに駆け寄った。それを微笑ましく見送ってからルティアは一つ深呼吸。
「どちらかと言うと彼らの侵入した経路上の汚染が気になりますね」
 流石に立っているのも辛いのか、近くの椅子に腰掛けてルティアはヒミカに視線を向ける。
「そっちは多分大丈夫。適当な理由でっち上げて浄化作業の依頼出してあるから」
「そうですか」
「手間を掛けさせて済まない」
 騎士の礼に「いえ。構いません」と首を横に振る。
「『彼女』からの要請もありましたからね」
 それが指し示す相手はヒミカたちの上役に当たる一人の女性だ。
「それにこの街を守るお仕事に嫌も良いもありません」
「なんかこの人オーラがキラキラしてる……」
 ヒミカがまぶしくて見てられないと騎士の後ろに回るのは冗談なのか本気なのか。少なくともヒミカ自身は人間種のはずである。
「ともあれ、私は戻ります」
 小さく吐息を漏らし、それから背後を僅かに振り返り「……その子はどうするんですか?」と問う。
「多分『施設』……かな。流石にもとの世界に戻してもねえ」
 人間爆弾としてこの世界に投げ込まれたのだ。帰って真っ当な生き方が望めるはずもない。
 余り知られていないことだが、不定期開放型の扉に入ってしまったなどの理由で路頭に迷う生活能力を持たない人を集めている場所がある。それが通称『施設』だ。
 基本的な思想は再び扉が開き、帰れる時まで身柄を預かるための場所だ。しかし中には元居た世界が崩壊していたり、両親が死去して帰っても生きられない子供達も居る。
 彼らの多くは最終的にクロスロードで商売を営む住人に預けられ職を覚える。当初は学校のように勉学を教える案もあったらしいが「ではどの世界の知識を教えるのか」という問題がいつまでも付きまとったのだ。だったらその子の将来のためにも生きていくための技能を与えるべきだと言う結論に落ち着いた。
「そうですか。協力できる事があれば言ってください」
「感謝する」
 土門が頭を下げるとルティアは少しだけ悲しげに、しかし微笑を浮かべてその場を辞した。
「さーて、ティアっちもダウンしたし今日はお開きかな?」
「アリス殿の処遇は?」
「どーせお伺い立てなきゃいけないし、今の状況も知ってるみたいだから沙汰が下るんじゃないの?」
 侍は暫く沈黙をしていたが「そうだな」とだけ呟き家を出る。
「リヒト、あたしたちも帰ろ?」
「三人はどうするんだ?」
 心配そうに二人を見守るアリスの背中が見える。
「別に問題ないっしょ。ここだって普通の家の設備あるんだし」
 少しだけ拗ねたように言われて騎士はようやく硬い表情を崩す。それから「わかった」と頷いてその場を辞したのだった。

 ◆◇◆◇◆◇◆◇

 いつの間にか寝てしまったらしい。
 差し込む朝日にゆっくりと体を起こすと、ぱさりと毛布が落ちた。体が痛い。妙な寝方をしてしまったためだろう。
「……」
 ぼやける視界。目をぐしぐしとして、それから傍らで眠る少女を見止める。
 顔色は未だに悪くやせ細って今にも折れそうなのは変わらない。しかしあのおぞましい死の気配はそこには無かった。
 すべてを思い出して、深く安堵の吐息を漏らす。
「ティアさんは……?」
 疲れているのだろうか。安堵と共に再び襲い来る眠気をなんとか振り払ってもう一人の少女を探す。
 先に気付いたのは音。それから香り。
 私は立ち上がって固まった関節をいくらかほぐすと香りの元へと歩く。
「起きたかや」
 ふわりと浮いたままのティアがアリスの方へ振り返る。手にはお玉。味噌の香りがキッチンを濃く染め上げていた。
「娘っ子は?」
「まだ寝ていました。すみません。手伝います」
「良い、もう仕舞いじゃ。あの子の様子を見て無理がなさそうであれば起こしておいで」
「……はい」
 正直ティアロットの料理の手際は良い。和食はこの世界に来る前に立ち寄った世界で学んだらしく、アリスと食事をするときには作ってくれる事が多い。
 一方のアリスは姿見はブロンドの白人だが覚えている限り日本で生活しているので和食には抵抗がないどころか故郷の味という感覚だ。しかし料理の腕はというとかなり残念である。彼女を保護していた人物がカップめんや外食を好んでいたためにそういう技能が全く身につかなかったのである。
「今度、習おうかな」
 なんとなしに呟いて戻ると少女が半身を起こし、ぼんやりと壁を見つめていた。
 安堵の吐息を漏らす。同時に昨日のあのおぞましい闇を思い出し僅かに身震いをする。
「大丈夫ですか?」
 少女の体がびくりと、可哀想なくらいに震えた。それからアリスの姿を見止めると逃げるように距離を取る。
「え、あ……」
 思わず手を伸ばすと更に怯えたように壁まで這って逃げ、揺れる瞳でこちらを見る。
 まさかこんな反応をされるとは思わず途方に暮れるが、意を決してゆっくりと近付く。
「ヒィ……」
 引きつるような悲鳴。まるでアリスをバケモノのように─────
 アリスは瞼を閉じて、跳ねる心臓を落ち着かせる。ずきりずきりと痛む心臓は今は後回しだと自分に言い聞かせる。
「大丈夫よ。貴女は助かったの」
 言葉が通じていない事はないはずだ。歯の根が合わぬほどに震える少女を痛ましく思いながら、アリスは手を引っ込めると座りなおした。
 住宅街でもやや奥まった場所にあるせいか、それとも早朝故か、酷く静かな世界に小さな料理をする音だけが鼓膜を揺らす。
 少女はアリスの動きを凝視していた。その一挙が自分を酷く傷つけるのだと言うように。
 だから何もしない。ただ何もせず、少女の動きを見守る。
 知っている。人の動きは怖い。それがどんな風に自分を傷つけるのか怖くてたまらない。
 でも、同時に自分は知っている。暖かい手は本当に暖かいのだと。
 落ち着けるように浅く呼吸をする。
 少女は怯えたままこちらを伺い、しかし部屋から出ようとはしない。時間が流れる。緊張を続けるのには体力が要る。新たな刺激があればその時間も延長できるが、何も起こらなければ精神は息継ぎを求める。
 差し込まれるのは疑問。それはこちらへの興味だ。
 体を縮こまらせ、しかし瞳は伺い見るような物へと変化している。けれども反応する事無くアリスは昨日の事を思い起こす。
 ティアロットを含む昨日の4人は管理組合の何者かが治安維持のために集めたという認識で間違ってはいないと思う。管理組合の基本スタンスから逸脱する行為だが、在ると言う事に違和感は無い。むしろ在って然るべきと思える。
 管理組合は《賞金》システムの管理のみで治安維持行動を行っているように見えるが、そんなことが上手く行くなんて普通は考えない。もしそうなら律法の翼なんて組織が根気良く活動を続けてなんていられないだろう。
 相棒のはずの少女を含む4人は管理組合の暗部だ。そして───自分もそこに加われと言われた。
 ────正直、そんな仕事には慣れている。
 自分はこの世界に来る前にも殺す、殺されるの戦いをずっと続けてきた。防衛任務のように言葉も理解できない怪物相手じゃない。人間───あるいはそうであった者とだ。
 好んでいたとは言わない。それが悲しい事だと、そして受け入れてはならない事だとずっと心に刻んできた。
 ぎゅっと目を閉じて痛む心臓を押さえる。
 立場と、倫理観と、衝動が争って内臓をかき乱すようだった。
 ぐっと奥歯を噛み締め、やがてゆるゆると息を吐く。
 私は、と声に出さずに呟いて。そしてこちらをじっと見る少女を見つめ返す。
 浮かぶのはきっと弱々しい笑顔。困惑の表情がそれを如実に示していてアリスはそれを濃くした。
「私はアリス。あなたは?」
 問いに少女は身を引き、逃げ道を探すように瞳はきょろきょろとせわしなく動く。それを見つめながら暫く待つと少女は掠れた声でぽつりと呟いた。
「……るな……りあ」
「ルナリア……?」
 おずおずと頷くのを見て微笑む。
「そっちに行っていいですか?」
 やはり少しだけ身を引いて十数秒沈黙を続けた後で少女はおずおずと頷く。アリスは刺激しないように立ち上がると少女の隣に少し間を空けて座った。
 自分の右に座ったアリスを見て、少女は重心を左に傾けてアリスの横顔を見る。
 夏ももう終わりのこの時期、窓から差し込む光はこんな時間でも強くてまぶしい。昨日の雨は名残もなく、今日は快晴のようだ。日本だったらきっと蝉が煩く鳴き始めて居るのだろうとぼんやり考えた。
「……」
 少女の唇が震えるように動く。まだ残る恐れもあるが、現状に対する違和感が上手く言葉にならないのだろう。
「私はあなたを傷つけません。そしてこの街はあなたを受け入れてくれます」
 それはもしかすると自分への言葉なのかもしれない。
 姿形が同じでも、身に秘めた力故にバケモノと蔑まれた自分が居て、姿形が違っても楽しげに暮らす町がここにある。
 少女はその言葉を飲み込めないかのように視線をきょろきょろと動かし、救いを求めるようにアリスへと向けられる。
「……ホント、に?」
「はい」
 ゆっくりと驚かせないように少女の手を握る。
 びくりとこわばり、やはり体は逃げようとするが、
「う……」
 涙が溢れた。
 ぽろぽろと次から次に流れ出す涙を見て、アリスは少女の頭を優しく抱きしめた。
 ようやく泣けたのですね。
 それは少女が安堵を得られたと言う事。緊張に縛られた心が僅かにでもほぐされたという事。
 だから、今は泣くに任せてアリスは少女を抱きしめた。

  ◆◇◆◇◆◇◆◇

「─────」
 戸に背を預け、ティアロットは天井を見上げていた。
 その向こうからはようやく収まりつつある少女の嗚咽がもれ聞こえている。
 手にはやや冷めてしまった食事。彼女はそれを見下ろしキッチンへと戻る。
「わしにはできぬことじゃな」
 ぽつりと呟く言葉に、苦々しい表情が付帯していた。
 小さな手を一度洗って塩を用意し、手際よく握り飯を作っていく。おかずをほぐして中に入れながら差し込む光をまぶしく見る。
 自らが感情を数字のように見てしまう事は承知していた。想像はできるが共感はできない。特にああいう子供の感情に合わせるような真似が一番苦手だった。
 数えで14。まだ共感できないと言った『子供』のカテゴリにありながら、それを余りにも遠い物と思う。
 子供のままである事を拒み、足掻き、走りぬけた結果、すべてを置き去りにしてしまった。
 子供に知識を教える事はできても、共に笑う姿はどうにも想像できない。どうしてもティアロットは彼女という『個』だった。

 アリスも仲間ではあるが、友であるのだろうか。

 それ以上に、自分はどうありたいのか。
 二度の失敗の記憶と、自身が何でもなくても良いという言葉が踊る。
 作り終えた握り飯を盆に載せて茶を入れつつ泣く声が失せている事を知る。泣き疲れたか落ち着いたか。
 果たしてどちらだろうかと答えを選ばぬまま彼女はアリスの居る部屋へと向かった。

  ◆◇◆◇◆◇◆◇

「まー、そうなるとは思ったけどさ」
 大図書館を抱く公園は久々の晴れ間に緑がまぶしいほどだ。その中でベンチに腰掛けたヒミカはやや嫌そうな顔をしつつ耳に届く言葉に応じた。
「ティアっちの相棒どうすんのさ?」
「使えばいい」
「気楽に言うねぇ。甘チャンだよ、あの子」
「代わりにあなたとティアロットは充分に非情だから問題は無いわ。
 土門とリヒトも割り切れる人だからね」
「足を引っ張るって懸念はしてないの?」
「土門の攻撃を即座に反射させた判断力は彼女が不意打ちやそういう少人数戦闘に慣れている証拠よ。
 それに、ティアロットは意外とあの子に肩入れしているわ」
「ティアっちらしくないよね。理由は付けてたけど明らかに私情が入ってたし。自覚あるかどうか知らないけどさ」
「自覚はあるでしょうね。あの子は自分の心も割り切って考えるもの。あなたとは正反対────いえ」
「うっさい」
 続く言葉をずばっと断ち切ってヒミカは不機嫌そうに立ち上がる。
「で? 決行は?」
「明日、作戦成功の報告を受けて軍議が開かれるらしいわ」
「予想戦力は?」
「8ランク以上の戦力は居ないはずよ。呪いを仕込んだ張本人は療養中」
「死んでないんだ」
「恐ろしい事にね」
 あれだけの呪術を使えば自らを侵してもおかしくは無い。
「簡単な話よ。あの世界では今もそれだけの人間が死に続けている」
 死者の亡霊を取り付かせるには彷徨う亡霊を呼び出さなければならない。だが周囲に彷徨って居るならば負担もずっと少ない。
「それを生きてる人間に詰め込んで爆弾にする、かぁ。正気の沙汰じゃないよね」
「正気のままでは居られないんでしょ。あの世界は間もなく消滅するのだから」
 数多存在する世界。その中には既に滅んだ世界や滅びに瀕した世界も当然のようにある。
「それでもまだ百万以上の人が残って居るわ。そしてクロスロードはそれだけの人を受け入れられない」
 クロスロード単体での収容人数は約30万。その3倍以上の流民をクロスロードに居座らせるわけにはいかない。
「勝手に開拓村でも作ってろーってワケにはいかないもんねぇ」
 面倒そうに空を見上げる。
「本人達がそのつもりなら勝手にどうぞって言うんだけどね。でも例え最初はそうでもすぐに壁の中が羨ましくなるわ」
 そうなれば100万を越える人間がクロスロードの敵となる。怪物よりも狡猾な敵に、だ。
「本当に生き残りたいだけなら別の世界を紹介しても構わないのよ。でも握手よりも先に爆弾を投げ込むような相手に笑顔を見せる必要は無いわ」
「それが権力者の専横でも?」
「代表よ。良くも悪くもね」
 ひとりひとりにアンケートを採るまでする義理もない。
「でも、手を下すのはあたしたちだよね? 今回の場合は……ティアっちだよ?」
「丁度いいじゃない。地球世界の光使い。彼女も殲滅戦専用よ?」
 言うまでもないがヒミカは自分の幸せ最優先で、その障害や益を得るための行為に躊躇いはない。だが『彼女』の駒ではそれは自分だけが持つ感性だと自覚している。
「センタ君でも使えばいいじゃん」
 バスケットボールサイズの存在でも手に銃でも持たせて並べれば充分な殺傷能力を持つ。数が揃えば充分すぎる脅威である。
「何だかんだ言って優しいのね」
「うっさい」
 ふんと鼻を鳴らせて俯き、
「どっさんは元々そういう仕事だったしリヒトも騎士だから戦争って割り切れてる。
 ……まぁ、顔には出るけどね」
 靴先で小石を蹴っ飛ばし、ため息。
「でもティアっちって一番冷静なフリして一番いろいろごちゃごちゃ考えてるんだよね。もっといい方法はなかったのかって。
 割り切っているフリして結局割り切ってないんだよ」
「あの子が一番最初に壊れるって事?」
 ヒミカは首を横に振る。
「あの子は多分壊れない。壊れた方が楽なのにきっと壊れない。壊れないままずーっと痛みを感じ続けると思う」
 難儀な性格だよねと呟いて立ち上がる。
「今回はあの子を連れて行くよ。虐殺の現場で何を叫ぶのか興味が出てきた」
 姿無き女性は数秒の間を置くと
「結果さえ出してくれればいいわよ」
 と楽しげな風を隠そうともせず通話を終了させた。
「性格悪いよね」
 口にせず「お互いに」と呟いて、彼女はニュートラルロードに向けて歩き始めた。
終わる世界への詩
(2010/10/11)
「……」
 防衛任務で空を舞うたびにターミナルのまるで永遠に続くような荒野に物悲しさを覚えます。
 でも、ここは違いました。
 ターミナルの荒野にはいずれ何かが芽吹くようなそんな未来を思い描く事ができます。
「滅び行く世界、か」
 侍さん───土門さんが呟く言葉が全てでした。この世界にどうしても未来という言葉を見出せない。世界そのものが放つ雰囲気が私を、私達をそう確信させるのでした。

 ◆◇◆◇◆◇◆◇

 五人が潜った扉の先にはすでに戦闘態勢に入った兵士達が待ち構えていた。
「洞窟の奥みたいだねぇ。まぁ、囲まれてないだけマシ?」
 天井は2メートル程度、自然の洞窟を木材などで補強しているようだ。さしずめ扉は古代の遺跡という感じだろう。一見石造りで見るからに古めかしい。
「────────!!」
 無視された兵士の一人が何かを叫ぶが、意味不明。
「あ、扉の加護……」
 アリスは言葉が通じない理由を察し、それから疑問顔でヒミカを見る。
「あたしとリヒトは日本語習得済みだもん。どっさんとあんたは元々日本語使ってるんでしょ?」
 まさか日本語なんて言葉を今更聞くとは思わなかったと視線をティアロットへ。彼女も地球世界に暫く居たと言うので恐らく日本語を喋れるのだろう。
「というわけで、言葉に関しては問題なし。ちゃっちゃとやっちゃおうか」
 ネイティブに聞こえるのだから随分な物だとアリスは感心する。
 そんな事をしている間に兵士の数が増えてきた。しかし見えない線でも引いているかのように一定以上は近付いてこない。
「おさらいするね」
 リヒトと土門が前に出るのを見送りながらヒミカが軽い調子で喋る。
「あたしたちの目的は扉の周辺に配備された兵を殺して一番偉そうな人をひっ捕まえる事」
 二人が進むに連れ、兵士はじりじりと後ろに下がっていく。ある程度余裕を見てヒミカはそれに続いた。
「それからお偉方の所に乗り込んで全滅させる事。最後に丁度洞窟で都合良いからこの洞窟を帰り際に破壊する事だよ」
 アリスだけが戸惑いを見せるが他の三人は表情を変えることは無い。アリスだってそうしなければならない理由は教えられていた。
「アリスや」
 いつも通りの古めかしい口調。扉の加護が無い今、それは確かに日本語なのだろう。
「わしとぬしで薙ぎ払う。腹を括れ」
 漣すら見られぬ平坦な言葉に、戦慄よりも締め付けられる悲しさを覚えた。
「─────!!!」
 兵士の一人が緊張に耐えかねて襲い掛かってくる。が、

 ぐしゃり

 迎え撃つように飛び出した騎士の剣が兵の頭を横殴りにし、洞窟の壁に叩きつけた。
 ────そして、変わらぬ歩調で再び歩を進める。
「────────!!」
 恐怖、そして混乱。
 余りにも圧倒的な腕の差に誰かが叫び、そして逃げ出す。人壁は無くなり、先に外の光が覗いた。
「……」
 アリスは頭を叩き潰され、ドス黒い血を流す死体を横目に皆に続く。他の3人は見向きもしなかった。
 これからこんな死体はいくらでも生まれるのだ。
 まるでそう言っているようにも見える。
 そして光景が広がる。
 間もなく死を迎える世界の光景が。
 空は驚くほど快晴で、しかし清々しさはかけらも感じない。見上げればどこまでも空虚で、思わず雲の一つもないかと探してしまう。
 周囲を取り囲む兵。その顔には緊張と、そしてえも知れぬ疲れがにじみ出ている。
「参ろう」
「おっけ」
 ティアロットの詠唱が始まる。それはアリスにとって聞き慣れたもので、即ち黄金の雪を招く物。
「────《輝夜》」
 誰もがただ見守る中、それはあっけなく完成する。
 晴天の空から舞う金の粒子。その幻想的で異様な現象に誰もが戸惑いの表情を浮かべ────

「──────────────────────!!!!!」

 絶叫を喉から迸らせた。
 燃える。まるで体が枯れ草で出来ているかのように、次々と人間が松明と化していく。見る間に周囲は炎の壁となり、次から次に人が倒れてそれでも炎を上げる。
「何ボーっとしてんのさ」
 軽く、そして冷ややかさを含む声。ヒミカは呆然とするアリスを見上げる。
「ティアっちだけじゃ流石に間に合わないよ?」
 至るところから声が上がり、怯えを張り付かせた兵がそれでもこちらへと進んでくる。同時に放たれた矢が雨あられと降り注ぐのが見えた。
 ヒミカは特に逃げる素振りも無く、土門もリヒトもただ己の武器を携える。
 ティアロットは矢など見えていないかのように詠唱を続けていた。
「っ!」
 体の中が変調する。朽ちる世界に王国が広がる。
 アリスは天からその全てを見下ろしていた。数多の矢も、広がる王国に戸惑い混乱する人々も、まるで停止した時間の中でその全てを捉え、認識する。
「来て───《トランプの兵団》!」
 声に応じるかのように広がる緑の平野に石の城壁が迷路のように立ち上がり、トランプの兵団が現れた。
 いたるところで混乱の声が上がる中、降り注ぐ矢を見据えたアリスはただ、ティアロットを守るために命令を下す。
「穿ちなさい!」
 兵団が槍を突き出す。
 そのすべては幻想で、その幻想の中に隠れた刃こそが真実だ。
 兵を、飛来する矢を残さずに貫く様をアリスの目は天空から見続ける。まるで絵本でその叙述を確かめるように。

『トランプの兵団は、飛び来る矢の全てを払い落とし
 迫る兵の全てを突き倒しました』

 そうして物語は終わり、王国は瓦解する。
 ひと時の幻影が去ればそこにあるのは潜んでいた脅威のみ。隆起した石が兵の全てを貫き、その命を奪っていた。
 彼らに飛来した矢のすべてを打ち砕き、彼らの立つ場はまるで針山のようになっていた。
「すっご」
 ヒミカが感嘆の声を挙げる。侍も騎士も驚いたようにアリスを見つめている。その視線の真ん中で少女は体の中で暴れ狂う何かに必死に耐えていた。
「アリス、もう良い。休んでおれ」
 彼女以外に事情を知るティアロットが術式を解除し、そう、声をかける。
 その声に安堵を覚えながら、今の一撃はターミナルで放った物よりも格段に威力が高かったと惨状を肉眼で見つめた。
「ターミナルでは強力な力は制限を受けておる。制限というよりも強さの均一化じゃな」
 混乱を見越してティアロットが脂汗を浮かべるアリスの肩に触れる。
「逆に本来の世界で負うべき代償が大きく軽減される事もある。理解できよう?」
 そうだ、とアリスは思い出す。この感覚は彼女の知る物に相違ない。体の中身が別の物に置き換わる感覚。自分が自分でなくなる感覚。そのままで居れば自分はバケモノに変貌するという確信。
 アリスはティアロットの手に触れ、呼吸を整える。
「大丈夫です。ちょっとびっくりしただけですから」
「無理はせんことじゃ」
「また頭を叩かれたくないですから」
 何とか笑みを作って、最後に大きく深呼吸。
「でも、昔よりも威力が上がってる気がします」
「当然じゃろ。わしらは停滞していたわけでない」
 その全力を抑え付けられていたが、その中でも伸びていたのだ。過去の自分を越えているのは当然の結果である。
「同じ攻撃は無理です。……昔もこれは露払いの一撃ですから」
「むしろやりすぎな気がするよね」
 岩の林に死体がぶら下がる。悪夢の光景の真ん中でアリスは己の行為の結果を改めて目にする。その数は千では利かない。
「早いに越した事はないし、じゃあ次に行こうか。お偉いさん探し」
「それだったら」
 アリスは虚空から見下ろした記憶を思い出し、一方向を指差す。
「あちらにしっかりとした砦があります」
「流石光使い。役に立つじゃん」
 軽い調子でアリスの背中を叩き、ヒミカはずかずかとそちらに向かって歩き出す。騎士が苦笑してその後ろにつき、侍はこちらを気にかけるように待機している。
「大丈夫です、落ち着きました」
 そう、声をかけると彼は一つ頷いて先を行く二人を追った。

  ◆◇◆◇◆◇◆◇

「─────────!!」
 怯えきった顔。身なりの良さからそこそこの立場にある人間だということは伺える。
 喚き、怒鳴り散らすが誰もこちらに近付こうとはしない。
 当然だ。ここからあの死体の群れは臨む事ができる。そしてどう考えてもそれを行ったのは彼女らだ。
「─────?」
 可愛らしい、そしてからかうような女の子の声。誰かとアリスは思わず周囲を見るが、それは自ずと一歩前に出たヒミカで止まった。間違いなく彼女の声音で、しかし発せられたのは彼らの使う言葉だ。
「え? どうして……」
 ここでは扉の加護はない事は先ほど確認したばかりだ。
「覚えたんだ」
 リヒトが会話を邪魔しないように、そして注意を怠らぬまま小声で言う。
「ヒミカの才能だ」
 彼女はちらりとアリスを見て猫のような笑顔。それから余裕たっぷりに偉そうな男へと向き直る。
「──────」
 なんと言ったかは分からない。しかし男の顔は絶望に沈むように青くなった。

  ◆◇◆◇◆◇◆◇

「貴方達の司令官はどこ?」
 あたしがこっちの言葉を喋った事に驚いた偉そうな男は驚きのままにこっちを見てる。
 背後でアリスも驚いて、リヒトが解説。あたしはちらりと後ろを見て笑みを向けてやった。リヒトってば優しー。感謝しなさいよ?
 さてと。視線を戻してあたしは改めて男を見下す。
「言わないなら死体の口から喋らせるわ」
 男はぎょっとし、嘘かどうかを計りながらも顔を青ざめた。この世界が死者を操る術を持つ事はあの呪いで明らかだ。死体に喋らせるコトくらいはありえるだろうと思ったけど、ビンゴみたいだねぇ。
「わ、我らが王に合ってどうするつもりだ」
「決まってるじゃない。喧嘩を売って来たヤツにする事なんて一つよ」
「……貴様ら、かの世界から来たのか!」
「あったりまえでしょ? って、報告が行く前に全滅しちゃったのか。
 まー、どうでもいいけど」
 ふぅやれやれと嘆息。
「自分がやった事、理解してるわよね?」
「……わ、我々は生き残るためにっ」
「あたしらを殺そうとした。失敗したらどうなるかくらいはその頭でも分かるわよね?」
 ぎと男の奥歯が砕けるような音が響く。手が剣に掛かった瞬間、
「──!?」
 リヒトとどっさんの剣が男の顔面と、心臓に突きつけられる。
 男は口をパクパクとしながら、放心してそのままぺたりと座り込んだ。
「リヒト、さんきゅー☆」
 あたしは笑顔でリヒトに愛情たっぷりの感謝を伝えて、へたり込んだ男を見下す。
「わ、我々は……」
「そうだねぇ、全部話してくれたらあんたとその家族だけは助けてあげようか?」
 ばっちりの笑顔でそう言うと、男の死に掛けた目に光が戻る。
「何だと……」
「こっちだって数百万人で押し寄せられたら困るだけで、十数人なら全く問題ないわけ。
 悪くない取引と思わない?」
 男の目が泳ぐ。世界のためってより、自分のために動きそうなヤツだなぁと思ったけど大正解みたい。
「わかった。何が聞きたい」
「うん、じゃあね」
 あたしはにこにこしながら質問を開始する。
 こんなやつはどーせこっちに来たら我が物顔で「元の世界じゃ偉かった」なんて主張する類のイタいタイプなんだから、あたしには約束を守るつもりなんてイチミリもないけどねー。
 これで自分よりも部下をとか子供をとか言うならまだ可愛げもあるんだけど。

 ともあれ、饒舌になった男の話を統合すると
 異世界の事を知ってるのはお偉方だけで、兵士は何も知らずに集められてたみたい。呪いが発動しきったタイミングで突入し占拠するのが目標で、そのときに突入した兵士も呪いの残滓で死ぬんだろうな的な扱い。
 その後で一部の選ばれた人が悠々新しい世界を手に入れるというなんともすばらしい作戦だったそうです。はい。
 確かにあの呪いを前提にすれば笑えない話なんだけどね。
 この一帯はこの世界の大国のとある地域でどうやらその国より外には情報は出てないみたいだけど。そこは信用できないかも。
 あの呪いを仕込んだ犯人はこの国の大司祭らしい。その教団の信徒が世界を渡った後で生産力になるって考え。国民のすべての移動は無理だからってことらしいけど、多分大司祭さんとやらが下克上狙ってそんな提言したんだろうねぇ。
 あと、たまに自分が高貴な生まれって自己主張するのがとってもウザかった。
「おっけ。じゃあ移住しようとしてる連中は近くの村に集まってるわけね」
「……そうだ」
 確かにいつ滅ぶかもしれないから遠い王都でのうのうとは行かないだろうね。

 あたしは振り返るとリヒトにあたしの世界の言葉で告げる。
「この近くにある村を潰すわ。それでこの世界が終わるまでの時間は稼げるでしょ」
 ティアっちもあたしと比べる程でもないけど無駄に言語能力が達者だから多分もうあたし達の母国語は理解してる。こちらを横目で見て、目を閉じた。
 リヒトはピクリとも表情を動かさないまま暫く沈黙して、やがて「わかった」とだけ言葉を返した。その中に秘めた憂いがたまらなくクールなんだけど、今は自重っと。
「こ、これで話せることはすべてだ。約束どおり────」
 あたしは振り返りもせず、手首のスナップだけでナイフを投げる。
 それは男の右目を貫いて脳を抉ったはずだ。トスと軽い音だけが室内に響き、新人ちゃんだけが驚きの表情を浮かべた。
「ティアっち」
 日本語に切り替えてあたしは宣言する。
「任せていい?」
 誤魔化すかなとも思ったけど、彼女は迷う事無く「わかった、ぬしらはここで待機しておれ」と返してきた。
「ティアさん?」
 どっさんはいつも通り何も言わない。困惑の声を挙げる新人ちゃんにティアっちは一瞥だけくれて飛行魔法の詠唱を始めた。
「ヒミカさん、一体────?」
「手っ取り早くケリをつけるだけだよ。あたしらは扉まで戻って待機。いいね?」
 良くないという顔を一瞬したけど、ティアっちの顔を見て言葉を飲み込んだ。それにしても……あの大虐殺を平然とやってのけて精神は随分と安定してるね、この子。思ったよりもタフなのか、それとも……殺し合いに慣れてるのか。
「では、行ってこよう」
「がんばー」
 あたしは気楽に手を振る。
 そうなると、案外あたしらの中で一番甘いのはティアっちかもしれないね。
 そんな事を考えながらあたしはリヒトの右腕に抱きつくのでしたっと。お仕事終わり。

  ◆◇◆◇◆◇◆◇

「ふむ」
 上空から見下ろした村は異様だった。
 村と言うには不釣合いな豪奢な建物が一つあり、周囲を護衛兵が動き回っている。元々村の物であったはずの家はその半分が破壊され、すでに黒くなった血の跡が道に見て取れる。
 村の外れにうず高く積まれた黒い何かは────間違いなく人間を焼いた跡だろう。他に村人の姿は見えないが、死体の数は家の数に対して少ない。
 つまるところ、この村の人間が狂気の爆弾に使われ、逆らって死んでしまった者を焼き捨てたのだろう。
 護衛兵はやつれているのが良く分かる。動きに機敏さが無く、時折建物の方を憎憎しげに見上げていた。
 建物を囲む壁の内側は別世界だった。荒れ果てた世界のどこから持ってきたのか、木花が並び、調度品が確認できる。無邪気に遊ぶ豪華な服を着た子供が不意にこちらに気付いて指差した。
 世界の滅び。すべての終末を目の前にして無垢な視線を向ける子供に罪は無いのだろう。疲れた顔をして歩く兵は何も知らされていないのだろう。
 すべてはその建物の中にある数人が策謀し、選んだ事に過ぎない。
 ────だが、と言葉を砕くように噛み締める。
 彼ら以外のすべてが善人として、彼らの全てを救うだけのキャパシティをクロスロードは有していない。
 また、世界中の者を扉に集めるだけの猶予も恐らく無いのだろう。
 この世界が如何なる理由で滅びるかは分からない。しかし世界の破滅、その結果を肌で感じるまでに至っている以上、猶予は皆無と見るしかない。
 魔王か、邪神か、そのような者が滅びの主であるならば、まだ何とでもなろうものを。
 気配を探る。魔力は充分にあり、それ以上に世界を覆うのは怨嗟の声だ。未来の見えぬ世界で誰もが絶望と嘆きに染まっている。そしてそれを救う神の力は欠片も感じない。
 神に見放された地、か。

 ────門番は斯く嘲り 絶望の扉を押し開く────

 この世界は消えるのだろう。小さな魔術師にその全てを救うだけの力は無い。彼女にできるのはクロスロードという地の安寧を影で支える事のみ。

 ────絶空は斯く狂い 希望の闇を切り開く
     そな祈りは儚き彼方へ ありえぬ定めを導きて
     かな叫びは触れえぬ今へ ありえた定めを砕き去る────

 だから、少女は歌う。

 ────終の神の叫びを聞け そは断末の糧とならん
     終の人の望みを聞け そは未来の光とならん
     赤き命をこの手で造り 全てを失い悔いを抱け────

 それはかつて少女が生まれ育った地を滅ぼした詩。
 彼女は彼女で無くなり、そして再び目覚めてしまった時、それは彼女が終わりを告げる詩となった。

「───────《終末の詩》」

 村が黒のドームに包まれる。こちらを見上げていた子供も、疲れ果てた兵士の姿も一瞬で見えなくなる。
 それは世界を作る詩。原理魔術という術式の到達点にして─────その失敗作。
 失敗作故に世界の卵は孵化する前に割れて砕ける。その中の全ての物は生まれる形を見失い、ただ破壊されて塵と化す。
 村であった場所は抉られた土地となり、後に何一つ残ることはなかった。

 少女はドレスのような服を風に舞わせ、死神の鎌のような杖を抱いて空を蹴る。
 己の役目は終えた。
 風を切る音に混じるのは怨嗟の声か。
 ひゅうひゅうと啼くのは誰のものか。

 小さな魔術師はそのすべてを受け止めるかのように、真っ直ぐ仲間達が待つ場所へと向かった。

  ◆◇◆◇◆◇◆◇

 その日、一つの『扉』は人知れず硬く封じられ、そして二度と開く事は無かった。
せつめいたーいむ
(2010/10/20)
「んじゃ、初異世界ってことでおさらいしておこっか?」
 あれから3日後。不意に呼び集められたのはニュートラルロードから3つくらい離れた小さなカフェテリアだった。
 人通りもまばらなこの道にあるカフェテリアは看板もろくに出して居らず、客なんてとても入りそうに無い。実際店主は彼女らの相手をして以降ずっと本を読んでいる。
「初というか、ここも異世界ですよね」
「あれ? ティアっち、この子結構突っ込み厳しい?」
「アリスは案外思ったことを口にするからの」
 ほうじ茶を手にしたティアロットの言葉にアリスは「う」と呻いて縮こまる。
「まぁいいや。この前渡った異世界で思ったより自分のパワーが出てびっくりしたんじゃない?」
 その問いにアリスは頷き、相方を見る。
「確か、強力な力は制限を受けている、だったでしょうか」
「良く覚えてるじゃん。特に魔法使いや異能系はその影響が顕著だからおさらいね」
 クッキーを口に投げ込み、もごもごとやって飲み込んで
「ある世界では絶対無敵って言われてるような連中でもターミナルだと負けの目が出てくる。これは『コンバート』って呼ばれる現象なんだけどね。
 Aっていう世界最強の魔法使いが山を吹き飛ばせる。Bって世界の最強魔法使いが家を吹き飛ばせるとするでしょ?
 その二人がターミナルに来た場合、二人の実力は同じになるの」
 山と家では偉い違いだとアリスは素直に首を傾げる。
「ちょっと分かりやすく差を明確にしたけどね。AとBの2つの世界の最強はターミナルでの『最強』のランクに括られるの。
 つまり実際の威力でなく『Aの最強』=『Bの最強』=『ターミナルの高ランク』ってわけ」
 かなり大雑把な話だが、アリス自身身に覚えのある事だ。一般人なら容赦なく貫くはずの彼女の攻撃はこの世界では随分と威力が弱い。
「もちろん、他の条件も絡むから差は出ちゃうんだけどね。大前提として認識しておいて」
 そういうものだと言われればそうなのだろうと頷く。
「んで、これはあくまでターミナルのルール。世界の法則みたいなものだね。だから異世界に出ると話が変わってくるの。
 十全そうかはわかんないけど、大抵縛りが無いからもともとの威力を発揮できちゃうわけ」
 彼女の感覚だとオーガ辺りを相手にすると一撃では倒せないが、この前の威力のままならば充分すぎるだろう。
「それとは別に例えば魔力の全く存在しない世界だとティアっちは無力な幼女になっちゃうし、太陽も無い、聴覚を視覚代わりにするような世界だと光使いのあんたは無力になりかねないってのもあるけどね」
 実際はアリスの光は自分の体内で生成しているのでそういう事態にはならないのだが、知覚強化系の能力は少ない光だと使い辛いのかもしれない。
「……町の隅っこに居る神様とかもそうなんですか?」
「基本的にはそうらしいよ。ただ、ホントに洒落にならないレベルの神族や魔族には別ルールが設定されてるみたい」
「別ルール?」
「あくまで噂だけどね。それが『別世界の最強』=『ターミナルでの最強』って言わなかった理由。
 そういうレベルの人たちは基本的に動けないらしいの。制限が重すぎて動作っていうノーマルな事すら殆どできないんだって」
「……どうしてそんな状態で居座っているんですか?」
 封印されているような状態で居座るより自分の世界に帰った方が良いのではないだろうかと思いながらアリスは問う。
「代わりにアバターを動かせるらしいね」
 アバター? と首を傾げると「代行者、身代わり人形というところじゃ」とティアが補足する。
「神々が世界に不干渉となっているケースはかなり多いらしい。故に代行体でも自由に動かせる体を得られる事は利とするところらしい」
 神様なんて信仰の世界にしか居ないアリスにとってはいまいち良く分からない話だが、確かに物語の神様は見守るばかりで実際に地上に現れる事は殆ど無い。
「話を戻すね。さっきの例でもしAな人がBな人まで力を減衰させられたとするよ。その場合Aな人は落ちた出力分、消費も減るの。
 威力が減ってるんだから当然だろうけど」
 先日感じた久々の『衝動』を思い出しほんの少し身震いをする。この四年間すっかり忘れていた感覚だ。
 彼女に異能を与える要因。それは彼女の体を作り変え、そして常に乗っ取ろうとしている。衝動に負ければ彼女は彼女でなくなるだろう。
「リヒトやどっさんみたいな体使う人は実感薄いかもだけど、ティアっちやあんたは良く分かると思う」
 アリスは頷き、続きを促した。
「これから一緒にやって行くんならこの前見たく異世界に渡る事もあると思うからこれだけは覚えておいて。
 あたしらがAかBかは行く世界次第。渡った先で不利なこともあれば、ターミナルで互角の勝負をされる事もある。
 その辺りの見極めを失敗するとさくっと死んじゃうからね?」
 私の場合は、と口に出さずに呟く。
 殆どの場合ターミナルに居ない方が死ぬ可能性は低いだろう。けれどもそれは自分を失いやすいと言う事でもある。
「ともあれ、あんたの殲滅能力はティアっち以上だから期待はしておくよん」
 軽く笑って彼女はまた一つクッキーを口に放り込んだのだった。
One’s

 朝が来る。
 そして目覚める度に俺は故郷ではありえない蛍光灯の付いた天井に深い疑問を抱く。
 どうして俺はここに居るのだろう。
 思い出すまでもない過去が何度も思い直した過去が飽き足らないと脳裏を過ぎる。
 全ては愚直すぎた自分が招いた災厄。己の正義だけを見て、只正しくあれば良いと考えていたその結末。
 愛する人を穢され、無二の友に刃を向けられたあの日。
 罪人として国を追われ、困惑の中で彷徨うしかなかったあの夜。
 正義を疑い、真実を求め、しかし真水の中でしか泳ぐ事を知らなかった自分はヘドロのような泥の中ではただ沈むだけだった。

 どうしてその自分はここに在るのか。
 ここに居ても良いのか。

 真実を求めないならば、せめて友の刃に討たれるべきではないのか。
 そうしなければ、巻き込まれ、穢されただけの彼女の魂は永遠に浮かばれる事は無いのではないか。

 戻りたいと願う。願い続けている。
 されどあの世界への扉は堅く閉ざされ未だに開く気配は無い。
 積層世界────そう呼ばれる故郷は天も地も異世界に等しい。翼を持っても空界への門を潜らねば舞う事は適わず、地面を深く掘ることすらもできない。
 故に、真なる異世界からあの世界へと戻るのは容易ではないと説明された。

 どうして此処に居るのか。
 心臓を抉るような問いを繰り返し、落胆の吐息を漏らす。
 この身は愚直な騎士。否、その立場すら失われた剣を持つ罪人。扉の事も世界の事も理解が及ばず戻る手立てすら掴めない。魔術とは生まれながらの才能と常識を超えた常識により成立すると聞く。騎士道とは立ち位置を虚にするそれに自分は表面を撫でることすら覚束ない有様だ。

 意識が明確になり、体が目覚めようとしている。
 その切っ掛けは気配。最大限に殺しても繰り返されたその接近を感知できぬ自分ではない。

 その好意を嬉しくは思う。
 けれども、罪を償えぬ自分に応じる資格は無い。

「ヒミカ」
 咎める声色に気配の動きがピクリとして止まり、しかしすぐに殺した気配を蘇らせて接近を再開する。
 ぽすんとベッドが沈み、腹の上に小さな頭の乗る感触。
 恩人でもある彼女は何一つ言わず、何一つ求めず、ただそうしたままじっとしている。
 彼女は賢い。自分よりも広く世界を見て、何より人の心を透かし見る。彼女の才の一欠片でもこの身にあれば、あの悲劇を招く事は無かっただろうと何度考えたか。
 彼女は知っている。この身の引き起こした惨劇を。この身に重く掛かる影を。それでもこうして自分を明るく慕い続ける。何故と問うた事もあるが、率直な好意だけが彼女の回答だった。
 改めて思う。応える度量も資格も我が身にはないと。
 重ねて思う。それは彼女達への背信に他ならないのではないか、と。

  ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「武器の取引、ねぇ」
 ヒミカが詰まらなそうに手紙の内容を口に出す。
 新たな指令の内容は文明レベルの低い世界へ重火器を持ち込もうとしている商人の件が記されていた。そのような事例は実に少なくない。なにしろ鎧甲冑で身を固める世界ならば10人ばかりが銃器を手に乗り込めば1つの町くらいは簡単に制圧できる。それらを指導者に売り込み、地位を得る事も簡単だ。
 無論クロスロード、並びに管理組合にこの行為を咎める理由は無い。元より異世界からの文化流入は極当たり前に行われている事だ。
 例えば神話で語られる英雄の武具。その一部はこうして齎された異世界の武具であるという事が意外と多い。「かつて栄えた文明」という件もそういう異世界文化が流入し、それが何らかの理由で引き上げたがために再現できぬまま文明が衰退したというケースもいくつもあると言う。
 ───自分達はこれから生まれる伝説の、「何らかの理由」の一つなのだろう。
「個人的な動きだから大勢で行く必要もないか。ティアっちとアリスは迎撃のほーの仕事もあるし、あたしとリヒトで行く?」
 俺は首肯を返す。彼女が言うなら戦力的には恐らく俺一人で充分なのだろう。
「おっけ。ターゲットの補足は該当世界で行うことになるから潜入と追跡で。
 まぁ渡っちゃった武器は多少は仕方ないとするみたい」
 こういった名残がその世界で古代の遺産や伝説の武器扱いになるのだろう。
「ターゲットは今はクロスロードに滞在。恐らく明日の早朝にはあっちに行くみたいだからそのつもりでね」
「わかった」
 俺は立ち上がりPBの告げる時間を聞く。
「ん? どっか行くの?」
「表の仕事だ」
 端的に告げると彼女の顔が見る間に不機嫌になる。
「むー。もう辞めちゃえば? あんなの」
 俺が静かに被りを振ると頬を膨らましたままこちらを睨むだけに留める。裏の仕事にも関与しているため、強く言えない事は彼女が一番良く理解している。
「じゃあ行ってくる」
「残業禁止だからねっ!」
 せめてものという一言に頷きを返し、俺は律法の翼の拠点へと向かった。

  ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 律法の翼。その始まりはクロスロード成立前に遡る。
 三世界によるターミナルの覇権を争う小競り合いの最中、武力を持たぬ者達を助けるために有志が集まり、避難誘導や食料の運搬を担った。時には無法を行う傭兵を迎撃する事もあった。
 武力を持って移動する彼らは一歩間違えれば三世界に討伐される可能性を秘めていたが、ガイアスやヴェールゴンドにとっては彼らは懲罰部隊の役割を担い、正義を信望する永遠信教からは良しとする行為だったがために見逃されていたらしい。
 その後に起きた大襲撃の結果、三世界が覇権争いから総撤退する事となった。主の候補を失ったこの世界で舵取りをするのは自分達だと思っていた矢先、ここぞと現れたのが『管理組合』という謎の組織だった。
 無論「自分達こそこの地の平穏を担う存在」という自負を持った彼らは、自分達を他所に作られた組織にどんな正当性があるかと批難した。
 しかし管理組合の持つ圧倒的な建築能力は彼らの口を噤ませる。ひと月の間に当時の来訪者全てが住める住居を整え、インフラの整備を成し遂げた。防壁となる巨大な壁と門を造り上げて人々に安心を齎したのは特に大きい。
 あらゆる種族の専門家を分け隔てなく招聘し、意見を取り入れた街づくりをその後も展開し続けるにも関わらず、律法権、司法権を一切主張しない『町を製作、維持する道具』を是とした組織にどんな言葉も八つ当たりでしかなかった。
 唯一、「他世界の干渉を受け付けないための組織」にしてはその異常な物資調達能力が違和感を覚えさせたが、今現在に至るまで特定の世界からの干渉は影も形も無い状態である。推測だけの批難など惨めな陰口でしなかった。
 律法の翼の前身組織は為すべき事を見失って解散も検討されたらしい。しかしそれを遮る事件が発生する。
 ────連続爆破事件。新暦1年2の月に発生し始めたそれに対し、管理組合は《賞金》を懸けるに留まり、何一つ対応をしなかった。管理組合は立法権も司法権も放棄しているのだからまさに額面通りの対応なのだが、殆どの者は管理組合を領主のような認識で見ていたために不満が膨らんだと言う。
 そこに積極的な介入を行ったのがルマデア・ナイトハウンドだった。どこかの世界の騎士だった彼は無法のままのクロスロードを普段から嘆き、爆破事件に対し丸投げのような対応の管理組合に強い怒りを示していた。
 彼に賛同した者は多く、彼の提案を元にその組織は『律法の翼』の名前を新たに背負い爆破事件へのアプローチを開始した。
 来訪者───特に住民は彼らの動きを評価し、事件も未遂に終わる事が増えた。テロを行っていた組織───世界も特定できた時点で

 管理組合は事件を解決とし、賞金の配給を行った。

 来訪者はこの報告を歓迎した。宣言の通りその後に爆破事件は起きなかったのだから歓迎しない理由は無い。
 だが面食らったのは律法の翼である。彼らは今から最後の詰めを行おうと準備していた矢先なのである。
 リーダーのウルテ・マリス、並びにルマデア・ナイトハウンドは自分達の功績を広く喧伝する動きを見せ、隊員もこれを自分達の働きの結果だと自負した。
 しかしその後、武力行使を辞さない治安活動の道を選んだルマデアは、他の来訪者に威圧感を与える事を是としないウルテに反発し独自の活動を開始。特にテロ事件で武勇を馳せたメンバーはルマデアに賛同しつき従う事になる。
 これが現在『律法の翼』が穏健派と過激派に分裂した始まりとされている。
 
「失礼します」
 ノックの後、「どうぞ」という幼い声を確認し、執務室へと足を踏み入れたリヒトは落ち着いた洋風の室内に余計な視線をやることもなく、こちらを見上げる小柄な少女へと近付いた。
 年の頃は10と少しばかりか。銀の髪を持つ穏やかな少女、彼女が『律法の翼』の創始者にして穏健派のリーダー、ウルテ・マリス嬢である。
「リヒトさん。お呼び立てして申し訳ありません」
「いえ」
 外見に不相応な落ち着いた言葉遣いもどこか神聖さを纏う彼女には似合っている。
「先日より入市管理局を通さず町へと入り込む来訪者の噂が持ち上がっています。
 この件にルマデアさんが動こうとしているという話を聞きました」
 リヒトは何も言わず、少女の瞳を見る。
「私達は何かした方が良いと思いますか?」
 騎士の立場はヒラの隊員である。律法の翼に措いて何の権限も無い彼には相談される謂れの無い話のはずだった。
 その上で彼に問うという意味を思い、騎士は一拍の間を置いた。
「必要は無いかと。所詮噂です」
「そうですか。ありがとうございます」
 少女は無理に笑みを作る。揺れる瞳は姿通りの年齢故に殺しきれない感情の表れだろう。
 ルマデアは猛将ではない。武を振るえば鬼のように例えられる彼は平時には知将として敬われている。彼が動くのであればそれなりにソースを持っていると推測するべきだ。しかしそれを「所詮噂」と切って捨て、それを彼女が納得するという光景を他者が見ればどう思うだろうか。
 すべての感情を無面目の裏に押し隠し騎士は思う。この娘は優しく、それゆえに皆に慕われている。だがその優しさは彼女を静かに蝕んでいるのだと。
「……それからもう一件」
 彼女は気分を打ち払うように言葉を発する。
「昇進の件、受けてはいただけないでしょうか?」
 その言葉を聞くのは初めてではない。彼女が申し出る理由も今のやり取りの中に明らかだ。
 そして自分が断る理由もそこにある。
「私の願いは、少しでも多くの来訪者がこの土地で健やかな生活ができる事。それだけなのです」
 騎士の言葉に先んじて少女は言葉を紡ぐ。
「貴方は腕が立ち、冷静な指揮官としての側面も持ちます。それだけでも十分なのです」
 それだけでも。言葉を脳裏で繰り返しリヒトは瞑目する。
「少し時間をいただけますか」
「良い回答を期待しています」
 リヒトは一礼し部屋を辞した。
 彼女と言い、何故ああも年若くして世界を広く見ることができるのだろうか。
 彼の胸に去来するのは己の不甲斐なさだった。

  ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 土門という名の侍はいつも街の中を徘徊している。
 彼の職はあえて言うなら賞金稼ぎだ。管理組合の配信する《賞金》情報を眺め見て、探す。
 同じく賞金稼ぎを名乗る者の中では彼はちょっとした有名人だった。100mの壁に目と耳を塞がれたこの土地で彼がターゲットを見つけ、追い詰める技法は群を抜いている。
 それもそのはずだ。彼はこの世界に来る前からそういうやり方でやってきたのだから。
 彼の故郷もまた地球世界だ。しかしアリスとは時代を違え、その居姿の通り江戸時代末期、幕末の頃に江戸の町で治安維持を務めていた一人だった。江戸の町をその足で駆け、相手を追い詰めて斬り捨てる。たったそれだけの事を何十、何百と繰り返してきた。もし彼が不慮の事故でその世界から消えなければ歴史は彼のことを悪鬼羅刹と謳ってもてはやしたかもしれない。
「観念しろ」
 草鞋が不似合いな石畳を踏む。その先でマシンガンらしきものを手に振り返る男には明らかに余裕が無かった。
「ちぃ、鬱陶しい!」
 迷いすらもしない斉射。射撃音が街角に響くが幸いにして周囲に人影は無い。
「笑止」
 対して彼が採ったのは直進という暴挙。数十の弾丸へと自ら飛び込み、まるで地を這うかのように身を沈める。
 彼の進路は直進に見えてやや左。右手に銃を持つ男はその銃口を最初やや右に開いた方向へ向けている。吐き出される弾丸が侍をかすめ、しかし届かない。
「っ!」
 銃を持つ男の顔に焦りが膨らむ。常識外れの光景が目の前に展開されているのだから無理も無い。気付けば装弾数の30はあっさりと0になり、しかし焦りに支配された彼の感覚はそれに気付くまでにコンマ数秒。さらにリロードという行動に移るまでに一秒を無駄にした。
「御免」
 白刃が切り結ぶ。
 草鞋が啼くざっという音と光は同時。それから銃が右手首を引き連れて舞うのが数瞬後。
「え、あ?」
 理解できないだろう。銃器を扱う者の中には接近武器を甘く見る傾向が強い。リーチの長さが強さだと言うことは認めざるを得ないが、技量の差もまた強さである。
 銃口の向きと距離。その二つの把握に成功したのであれば着弾点はおのずと知れる。槍の一突きと原理は何一つ変わらない。
 ────もっとも、一度そう口にした所、リヒト殿以外には賛同が得られなかったが。
「観念せよ。尚抵抗するならば斬り捨てる」
「ひぃぃいい!?」
 そこにはもう戦意の欠片もない。ただ怯えるだけのしがない小物の姿がある。賞金額も大したことの無い悪党気取りならばこんなものだ。ただ隙を見せれば安易に牙を剥くという性質だけはどうにも好かない。今も怯えながらもしきりに隠し武器を取り出す隙を伺っている。
 そこに必殺の気概があるならまだ良し。だが、あくまで逃げるための極まった行いだ。場合によっては人質もとりかねない事がなお気に食わない。
「もう一度だけ言う。無様な抵抗をするならば、早々にその左腕も貰う」
 その一言でこわばった左手がだらりと下に落ちた。
 すぐにセンタ君が数体やってきて男に応急手当と魔法的な拘束具を仕掛ける。
 彼の処遇は今後2つだ。
 1つは《賞金》と同額を罰則金として支払い、釈放される。
 もう1つは入市禁止とされて元の世界に送り返されるか。だいたいこの町で小悪党じみた騒ぎを起こす連中は元の世界から逃げ出したような連中が多い。戻されればそちらの法にいずれ裁かれるだろう。
 無論、《賞金》を懸けられた時の被害については自己責任である。男が罰則金を払えば当然復讐の機会も存在するので賞金稼ぎは余程の事がない限りわざわざ生かして捕らえるような事はしない。
 彼とて別に活人を旨としているわけではない。ただ、たまたま無力化してしまった者にとどめを刺す気にならなかったに過ぎない。
「どっさんは充分お人よしだと思うけどね」
 何かが飛来するのを感知して咄嗟に左手で受け止める。少し潰してしまったそれは饅頭だった。
「ヒミカ殿か」
「センタ君が来る前にさっくり殺しちゃえばいいのに」
 センタ君に確保された時点で賞金は一時解除される。その後にターゲットを害すれば《賞金システム》に対する妨害としてそっちが《賞金》を懸けられる羽目になる。
「別に人殺しを好んではいない」
「そういう問題なの?」
 もくもくと袋に入った饅頭を食べながら少女が首を傾げる。
 侍は刃を鞘に納めて手の中の饅頭を見る。
 口にしようとした言葉ごと饅頭を食む。
「一人とは珍しいな」
「うー。だってリヒトが仕事に言っちゃったんだもん。
 あの偽善者のことなんかほっとけばいいのに」
 この娘は純粋だ。純粋に人を愛し、純粋に殺意を抱く。まるでスイッチのようにその途中を持っていない。
 人を手にかけた数だけで言えば自分達の中で一番少ないだろう。だが彼女にはその行為にわずかにも躊躇がなかった。
 敵だから殺す。邪魔だから殺す。
 倫理も道徳も無く、思いついたように殺人を為す。
 だが人斬りの自分にそれを窘める言葉は無い。道徳をどう謳えと言うのか。命の尊さなどどの舌が紡げようか。
 その躊躇いがいつも口を噤ませる。リヒト殿にしてもきっと同じだろう。
 そう、何より危ういのは彼女がそれを罪と認めたときかもしれない。
 この手で死を紡ぐ理由で───誤魔化しで心を固める方法を覚えた我々とは違うのだから。
「何? じろじろ見て」
「ん。いや。なんでもない」
 饅頭をひと呑みにして手を拭う。今の思いのせいか、初めて人を斬った後その手で食事をする事を畏れた昔が脳裏を掠めた。
「だめだよー。あたしがどんなに可愛いからってぜーんぶリヒトの物なんだから」
 そこらの娘と全く変わらぬままに楽しそうに笑う少女を改めて見て、侍はフと笑う。
「承知している」
「なら良し。どっさんはもう暇なの?」
 と言うより自分が暇で仕方ないのだろう。この時間であればティア殿もアリス殿も街の外だ。
「時間の都合は付くが」
「よし、じゃあ買い物手伝って。この前ティアに聞いたの試してみたいから」
 胸中の考えを捨てて、ただ友人としてその笑顔に応じる事にする。
 幾千の問いを重ねても、自分如きが倫理を語るはおこがましいか。

   ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 ぎゅっと小さな手がアリスのロングスカートを掴む。
 五時を過ぎたクロスロードは夏場ともあってまだまだ明るい。担当時間を終えて戻ってきた二人はルナリアを一度迎えに行き、夕飯を食べるために外に出ていた。
 二人とも自炊くらいは出来るが、特にティアロットは放っておくとビスケットを齧って終わりにしてしまうので仕事の後はアリスが引っ張りまわすのが常だった。
「……」
 おどおどと周囲を見回すルナリアにアリスは優しい苦笑を零してその髪をゆっくりと撫で梳いた。彼女の世界は人間種が基本だったのでこの町は仮装行列の群れに等しい事だろう。特に悪魔系や獣人系には酷く怯える素振りを見せる。
 しかし何よりも苦手とするのはどうやら人間の大人だった。彼女がどんな目に遭わされたのかは想像もしたくないが、真っ当なやり方で集められた人間があんな呪いを注ぎ込まれるとは思えない。
「時間が何とかするじゃろ」
 こちらを見ずにティアロットが言う。アリスは一つ頷いてルナリアの手を包むように握った。
「着きましたよ」
 そうして辿り着いたのは『純白の酒場』という食堂だった。色々な理由もあり二人が良く利用する店である。
 まだ早めの時間ではあるが店の客は随分と居る。これがあと2時間もすれば超満員になるのがこの店のいつもの光景だ。
「あ、いらっしゃいませー!」
 10歳くらいの女の子が可愛らしいウェイトレス服のスカートを翻して手を挙げる。一緒に腰まである黒髪もふわりと踊った。
「ヴィナちゃん、こんばんわ。3人だけど」
「空いてるところ、どこでもいいよー」
 見た目にしては舌足らずな言葉遣いで応じ、「ふぃるー、お客ついかー」と奥へと声をかけた。
「ハム君、これ、7番ね」
「きゅーーーい」
 甲高い鳴き声にルナリアがきょとんとする。そちらを見れば体長2m弱の鼠が頭の上に器用に盆を載せて走り回っている。テーブルの間隔は結構詰められているが気にする事無くすいすいと走り抜けて客のテーブルの前に到着する。
「……ありす、あれ、なに?」
「ハム君ですね。何と言われてもちょっと困りますけど」
 巨大なハムスターと言うのが適切な答えだが、喋れないので来訪者でなく使い魔なのだろうかと彼女も首を傾げる。
「はむくん?」
 ぎゅうと握った手を強くしつつ目を大きくしている。かなり興味を持ったみたいである。お昼時などやや空いている時間にハム君に抱きつかせてくださいとお願いする客も少なくないんだとか。
「とにかく座りましょう」
 手近なテーブルへと手を引き、ここに連れてきて正解ですねとアリスは小さく呟く。
 純白の酒場はとにかくメニューが多い。数百種はあろうかというメニューをたった1人(たまに2人)でこなす店長はある意味この町の有名人の一人だ。
「適当に頼んでいいですか?」
「構わんよ」
 食への拘りが無さ過ぎるティアロットにメニューを渡しても目に付いたどこの世界の物かも分からない料理を指差しかねないのでこれもいつものやり取りだ。
 ルナリアを見るが、彼女はきょとんとこちらを見上げている。どうもこういう『お店』自体が始めてらしい。
 アリスは元々の世界では外出すら滅多にしない立場だったのだが、彼女らに比べれば大分マシのようである。
「すみません、良いですか?」
「はーい♪」
 ヴィナの返事を聞きながら、アリスは注文する内容を脳裏に描いた。

   ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

「ねえリヒト」
 あたしは知っている。とある国で穢れ無き騎士として勝利を重ねていた英雄を。
 あたしは知っている。余りにも真っ直ぐ過ぎて、人の悪意に無関心だった英雄を。
 人は怖い。
 あたしの世界には様々な種族が居た。中でも魔人と天人には地人───普通の人間ではその眷属ですらまともに対抗できる相手ではないものまでいたけど、それらをひっくるめても人間は怖い。
 そんなバケモノにも人は勝ち得るんだ。魔人に力を狩りて天人を殺め、天人の加護を得て魔人を討つ。地を這うだけの無才の種族は知恵と執念だけでやり遂げてしまう。
 でも彼は、真っ直ぐな騎士は悪意や嫉妬や恐怖に人が簡単に歪む事を考えもしなかった。
「明日仕事が終わったらさ、どこか食事に行こう?」
 瞳が揺れる。その意味だってあたしはちゃんと理解している。リヒトの頭には悔恨という重しを携えた彼女が巣食っている。

 詩人がそれらしく歌っていた。
 死者を思う者に生者の魅力は届かない。

 聞いた時には何の事だか理解できなかったその言葉も今では痛いくらいに良く分かってる。
「ダメ?」
「……そんなことは無い」
 あたしは満足げに笑みを作って食事を続ける彼を見る。心の中なんて欠片も表情には出さない。

 あたしは婚約者を殺され、しかもそれを自分の凶行と称し罪に問われた彼を拾った。
 彼は殺された────違う。本当は魔人の眷属に犯され、忌み子を無理やり孕まされ縛り付けられた婚約者を誰の目にも曝さないために屋敷に火を付けたのだ。そして彼は婚約者の兄であり、彼に並び立つ騎士であり、親友でもある男に己が殺したと証言したんだ。
 その上で真犯人を捕まえるべく国を逃げた彼をあたしが拾った。親友に殺されかけ、重傷を負った彼を。
「そう、じゃあ約束だよ?」
 リヒトはその事実を一度だけ零した。懺悔するように、血を吐くように。
 あたしはそれからずっと一緒に居る。こんな異なる世界にまで一緒に。
 その事実を聞いたのは一回きり。以来『彼女』の事を彼が口にした事は無い。世に知れた罪を背負い、罪人を称し続けている。
 あたしは彼女の姿を知らない。見た事も話したことも無い。人の口を渡った像しか知らない。
 それがあたしのライバルで、リヒトの心の闇だ。
「わかった」
 以来、彼は感情を殺し続けている。自分が生きてる事を罪と思うように。自分が笑顔で居られる事が罪であると言うように。
 影が走る笑み。自らに幸福を禁じながら、あたしに合わせて笑顔を作ろうとする。そうして出来上がる表情をあたしは気付かないフリを続ける。
 喜びを作ろうとしてその罪に戸惑いを見せる彼が『微笑んでくれた』と笑みを濃くする。

 あたし達は魔人を呼び、『彼女』を犯した男を追いかけた。世界を巡り、様々なことに巻き込まれながらも旅をした。
 あいつと出合ったのもその最中で、まぁそれはいいや。
 あたしの世界では空も地中も、魔界も天界も、森も海も異世界だ。定められた扉を通らないと目の前の海に触れることすらできない。この世界にちょっと親近感を覚えるようなそんな世界だった。そしてそんな世界特有の罠に掛かってここに居る。
 仇を追って潜った扉の先。そこはあたし達の知る別層の世界でなく、この多重交錯世界ターミナルだった。その上どうやってかは知らないけれどあたし達は戻る道を封じられた。
「じゃあ、明日の仕事もぱぱーっと片付けちゃおーね?」
 あたしは正直喜んだ。だってあの世界に帰れないなら────
 でも、リヒトも、ついでにあいつも元の世界に帰ることを諦めていない。あのままあちらの世界に居たら、世界の敵として認知されてしまったあたしたちはいずれ捕まっていたかもしれないのに。
「ああ」
 仇の男なんてどうでもいい。リヒトとずっとここで暮らせるならそれで構わない。
 でもその男を討たないと、彼の心はずっとあの女に縛られ続けるんだろう。
 あたしを見る目はいつも揺らぐ。あたしへの罪悪感と彼女への懺悔。旅立ちから3年も経とうとしているのに、あたしを真っ直ぐ見てくれない。
 たまに思う────あの男が羨ましい、って。
 リヒトはあの男を真っ直ぐ見つめている。それが憎悪であっても真っ直ぐな気持ちを突きつけられる事をあたしは望んでいる。
「約束だからね」
 笑顔で放つ言葉。そんな念押しをしなくてもリヒトは約束を違えない。
 それはあたしへの恩義? 罪悪感? 私の笑顔の裏を彼は覗かない。こんな思いの欠片も知らない。知ろうとしてくれない。
 そんな状況にあたしに与えられた力は何一つ解決策を与えてくれない。
 だけどまっすぐで綺麗なリヒトがあたしは大好きで─────まっすぐだから彼はあたしを見てくれない。
 その葛藤の全てを隠し、私は笑顔を作り続ける。
「約束、だからね?」
 拗ねたり怒ったり、ほんの少しの感情を大げさに表現し続ける。
 自分を追い込みすぎてボロボロのリヒトが本当に壊れてしまわないように。

 ────本当に?

 ────本当だよ。
 あたしは────

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